海の見る夢 №90 [雑木林の四季]
海の見る夢
-静かな音楽ー
澁澤京子
・・あの青い空の波が聞えるあたりに
何かとんでもない落とし物を
ぼくはしてきてしまったらしい
「かなしみ」谷川俊太郎
まだ子供が小さかったから、今から30年位前にもなるだろうか。その頃、フランスから友人が帰国していて、彼女とその夫(仏人)を骨董市に案内しているうちにすっかり骨董にはまって、暇を見つけては骨董屋巡りをしていた。もちろん、そんなにお金がなかったので買うのは安物ばかりだったが。
ある秋の夕暮れ、半地下になった骨董屋に入って店の中を眺めているうちに、店内に渋い枯葉色のセーターにジーンズをはいた男の客がいて、そのセーターの色があまりに素敵だったので、骨董よりもそのセーターに目が釘付けになった。たぶんシェトランド毛糸で編まれたセーターだったけど、見たこともないような見事なグラデーションの色彩でジーンズのブルーにこれ以上ないほど合っていて、その枯葉色のセーターを着ていたのは谷川俊太郎さんだった。(さすが!)である。谷川俊太郎さんは骨董のお皿を手に取ってしきりに眺めていらしたが、衣服にしても、お皿にしても、車でも家でも、(あるいは)恋人にしても、谷川俊太郎さんはきっと、吟味の上に吟味を重ねた美意識で選ぶ人に違いない、と感心したのであった。(私は茶系のセーターが好きだけど、いまだに谷川俊太郎さんが着ていらしたような枯葉色のセーターには巡り合えずにいる)
谷川俊太郎さんが亡くなった。大好きだった「鉄腕アトム」のテーマ曲の作詞は谷川俊太郎さんだった。ちなみに私が小さかった頃は、土曜日の夜の「夢で逢いましょう」、日曜の朝の「題名のない音楽会」、「あなたのメロディ」では毎回、高木東六さんの朗らかなおしゃべりが聞けて、テレビをつけるとクレイジー・キャッツが大活躍していた。その頃は、とても良質の音楽があふれていたような気がする。
今年の夏、入院した時に友人が送ってくれた谷川俊太郎さんの絵本で心が慰められただけに、なんとも言えず寂しい。最近の、暴力や脅しのあった滅茶苦茶な兵庫県知事の選挙といい、何の恥らいのかけらもなく大声で他人のプライヴァシーを踏みにじり、まっとうな言論を平気で踏みにじる人間が勝つような、まさにフェイクファシズムという表現がぴったりの狂乱の世の中で、温かい灯りがひっそりと静かに消えた。
・・ネロ
お前は死んだ
誰にも知られないようにひとりで遠くに行って
お前の声
お前の感触
お前の気持ちまでが
今はっきりと僕の前によみがえる・・
「ネロ」谷川俊太郎
谷川俊太郎さんの詩で私が最も好きなのは、谷川さんの若い時のもので、教科書にも載っていた「ネロ」という死んだ犬に捧げた詩だった。
萩原朔太郎や室生犀星には猫が似合いそうだけど、西脇順三郎や谷川俊太郎には犬がよく似合う。萩原朔太郎や室生犀星は着物がよく似合い、玄関が引き戸になっている日本家屋に住んでいそうだが、西脇順三郎や谷川俊太郎にはセーターとジーンズが似合う。そして、佐藤春夫の小説に出てくるような暖炉のある小さな西洋館に住んでいて、落ち葉の積もった散歩道を、犬を連れて軽快に歩きそうな雰囲気がある。
いい詩というのは、人の心の中に埋もれている、何かとてつもなく懐かしい感じのものを掘り起こしてくれるのである。谷川俊太郎さんほど、小さな子供からお年寄りまで幅広く愛された詩人ってなかなかいないだろう。そして、大衆に愛されながらも、決して最後までそのレベルの高さを落とさなかった。
今頃、谷川俊太郎さんは仲の良かった武満徹さんとともに、森の中で静かな音楽を聴いていらっしゃるような気がしてならない。
2024-11-29 10:01
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