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夕焼け小焼け №49 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

平和と独立の配布・小河内村山村工作隊 1

             鈴木茂夫

 昭和26年11月10日火曜日。
 党の細胞会議が開かれた。文学部地下のソビエト研究会の部室でだ。40人でタバコの煙が充満している。
 私は露文科のクラスの党員や文学部の前の広場によくいる党員学生と話しあううちに、ずるずると党組織・細胞の会議に顔をだすようになっていた。党員ではなく党の支持者・シンパとしてでいいという条件でだ。だから党費を払ったことはない。
 日本共産党新宿地区委員会で学生を担当している常勤の林田が話し始めた。
 「同志諸君、党が進駐軍や治安当局の弾圧を受け、幹部は地下に潜り込む緊迫した情勢になっている。われわれの置かれている状況を簡単に述べ、行動目標を明らかにしたい。
 さる2月23日、第4回全国協議会・4全協が開かれ『軍事方針』が提起された。
『敵の軍事基地の拠点の麻痺・粉砕』『軍事基地、軍需生産、輸送における多種多様な抵抗闘争』『意識的な中核自衛隊の結集』『自衛闘争の中からつくりだされる遊撃隊』などが発表された。党地下軍事組織は『Y』と呼ぶ。また山村地区の農民を中心として全国の農村地帯に『解放区』を組織することを指示した」
 林田はそこでタバコに火をつけた。
「10月には第5回全国協議会・5全協が開かれた。『日本共産党の当面の要求――新しい綱領』(51年綱領)が採択され、「われわれは、武装の準備と行動を開始しなければならない」とする軍事方針が打ち出された。その骨子は『 われわれが軍事組織をつくり武装し、行動する以外にない。われわれの軍事的な目的は、労働者と農民のパルチザン部隊の総反抗と、これと結合した、労働者階級の武装蜂起によって、敵の兵力を打ち倒すことである。同志諸君には、軍事方針の徹底のため,頑張ってもらう」
 それだけ言うと林田は去った。
 執行部の杉谷は
 「軍事方針およびYの担当任務については個々の同志に連絡する。同志鈴木には平和と独立の配布責任者になっもらおう」
 非合法機関紙「平和と独立」は、1950年8月に創刊されたタブロイド判だ。この編集、発行、所持にかかわると,ポツダム政令325号違反として逮捕され、進駐軍の軍事裁判にかけられる。
 私は仕事をはじめた。指定された無人のポストへ行き、新聞の包みを受け取り、今度はそれを別の何カ所かのボスとに配布するのだ。
 はじめて指定された集配ポストへ行く。  
 大隈講堂を後にして、郵便局、蕎麦屋金城庵を過ぎる、都電の早稲田停留所前だ。電車道から神田川にかかる豊橋を渡る。通りの両側には雑貨屋や八百屋、魚屋が軒を並べている。
 そこから4つばかりの丁字路や十字路を過ぎて直進。その右手に木造二階建てのアパートがある。そこの木造の階段の下に、10数個の郵便受けがある。その中の一つにハトロン紙で包んだ「平独」があった。私は包み紙を肩で担ぐようにした。重い。
 通りがかりの理髪店に私の姿が映っている。長く伸びた髪、すり切れた背広、陸軍払い下げの編み上げ靴、それは明らかに左翼学生の姿だ。これでは警察に怪しまれても不思議ではない。姿形を普通の学生のように変えなければいけない。
 私は帰宅して、「平和と独立」を開いてみた。

    平和と独立 第68号 1951年11月5日
   主張
   第5回全国協議会の実践に立ち上がれ
   わが党は、凶暴な弾圧に抗して、10月はじめ第5回全国協議会を開催した。この会議
   には地方党機関紙の代表、主要な大衆団体グループ代表、および中央党機関の同志が
   参加した。
   この会議は、わが党にとって歴史的な重要性を持つものである。
   第20回中央委員会によって決定された「日本共産党の当面の要求・新しい綱領草案」の
   審議を終結し、大会に代わって満場一致これを採択した。
   この綱領草案は、発表以来全党に感激を持って迎えられ、かつてない熱心な討議が全
   細胞で行われた。
   全国協議会は、この細胞の討議を基礎に、これを審議したのである。
   これによって綱領は、全党の行動の基準となり、全国民の勝利の旗印となった。
   わが党は、既に規約で定められている通り、この綱領を認め、党費を規則的に納め、   
   党の一定の組織の中で活動するものの組織であり、この綱領に反するいっさいの分派
   思想や分派組織を許さない鉄の規律によって固められているのである。
   われわれは今後この綱領と規約によって党の団結を一層強めなければならない。

 党の軍事方針の対象とは何を想定しているのか。日本の警察権力か、アメリカ占領軍のいずれかか、その両方なのか。
 日本共産党は、国際共産党の指導機関であるコミンフォルムが、日本共産党の方針を批判したことで党内が分裂状態となり、武装方針に変更したのだ。党は独立自主の党ではないことは明かだ。
 私は軍事方針の必要なことの理由が分からない。と同時にその相手が巨大であることに怖れを感じる。
 戦後の日本共産党の叫び声は、焼け跡の町に明るく響いた。占領軍を解放軍とし、議会で活動をする姿は悪くなかった。だが共産党は場合に応じて七変化するのか。
 名状しがたい疑いを抱きながら,私は共産党の方針に従っている。

 1952年(昭和27年)3月31日午後。
 緊急細胞会議だという。文学部地下のソビエト研究会に党員が集まった。
 細胞指導部の村山が口を開いた。
 「きわめて重大な事態が発生した。一昨日29日の早朝、国家地方警察東京都本部は、青梅、五日市、福生、八王子の各警察署に指令。約100人の警官隊を動員して、小河内村に定住して活動していた同志23人を逮捕した」
 発言を求める声。
 「俺たちが小河内へ行こう」
 「指導部としての意見も、小河内村の拠点は守り抜くとした。早稻田の細胞は弾圧に屈しない。新たな第2次山村工作隊を派遣することにしたい。その氏名は指導部に一任してほしい」
「異議なし」
「指導部としては、明朝先発隊10人を送り出す。その任務は寝泊まりする場所を確保する。食器、毛布を運び込む。つぎに今度の日曜日の6日、本隊として約20人を送り出す。学内の文化団体に呼びかけ、平和ハイキングとして行こう」
 私は第2次本隊に指名された。「平独」の配布で、かなり露出しているので、その任務は終わって小河内に行くというのだ。手当たり次第、危険な仕事を回してくるようだ。


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