浅草風土記 №39 [文芸美術の森]
夏と町と 不動様 3
作家。俳人 久保田万太郎
作家。俳人 久保田万太郎
五
日くコンクリートのベンチ。
曰くくコンクリートの藤棚。
日くコンクリートの土橋。
日くコンクリートの…・
一ト足、不動さまの境内へ入ったとき、われわれのまえにあったのはそれらの施設でした。秩序ただしい植込、整然と小砂利の敷ならされた歩道、そうしたものを外輪にもった当世ようの小公園。一昔日の、梅ばやしのあった時分の閑寂なふぜいは、ただその植込の一部の、浅い茂りを透してみえる川の水、その水のうえを行くおりおりの船のかげだけにしか残っていない……ということをもう一つはッきりさせたものに、間もなくそこに展けた広っ場の光景がありました。……すなわち例月二十八日の賑い……むかしながらの、うちみはむかしにちっともかわらない昼縁日のあらわなけしきがありました。
まえに、うしろに、右に、左に、いくつにもわかれて出来た人の輪の、そのほうぼうの間を縫ってそこにもここにも荷を下ろしたおでんや、パンや、氷や……浪の花をうず高くもり上げたうで玉子や、旗を立てたアイスクリームや、赤い薄荷を硝子の壷に入れたお好み焼や。……ですが、天気のわるいせいか、どの荷のまえにも、屋台のさきにも、うらみッこなしに一人の客も立っていないので。――いえば.だから、いたってのしらじらとし
た感じ……
第一の人の輪のなかをわれわれは覗きました。盲目が浪花ぶしをやっていました。ひしゃげた鳥打帽子にお約束の色の剥げた紋つきの羽織、四十恰好の小柄な男が三味線を抱えてしきりに牡蠣のような眼をむいていました。何をやっているのか分らなかったものの、津の国屋津の国屋とうるさくいっていたのに徴して「安政三組盃」かも知れないとおもいました。――抱えた三味線の、どの糸だかの切れてだらりと下っているのも惨めな感じでした。
第二の人の輪のなかを覗きました。白足袋、表附の下駄、綿の袴を穿き、縫紋の単羽織を着た四十七歳のきわめて薄い髭をもった紳士(なぜ四十七と分ったかといえば自分からはッきりそういいましたから)がすなわち夏外套を脱いで助手の大学生にわたしながらしきりに何か薬の効能を説いていました。いやしくも人間なら誰でもがもっている病気、そうして古来、どんな医者でも薬でも決して直らないとされている病気、それを即座に、みているまえですぐにでも直してみせることの出来る薬を発見した、そのためにはしかし学校を出たあと二十年の年月を無駄にした、二十万円の金をつかい果した、もしうたがわしくぼ牛込喜久井町所在のなにがし合資会社をたずねて来い、自分がその会社の代表社員ということはこれこの免許状がこの通り説明している。――そうしたことばかりいつまでも饒舌りつづけてついにその薬が何に効く薬かはッきりさせません。――しびれを切ちしてそこを退きました。
第三の人の輪のなかを覗きました。紺の腹掛、うでぬき、脚絆といった恰好の草鞋はき。
……そうした古風ないでたちの若い男が大きな声でしきりに何か饒舌っています。これは面白そうだと無理から前へ出ました。
が、すぐ、いそいでまた外へ出ました。――蛇です、蛇つかいです……
六
そのあと、第四の、第五の、第六のそれぞれの輪の中を覗いてあるきました。が、どれもすべて一ト眼では要領のえられないものばかり、五分と十分その饒舌るのを聴くのでなければ何を売るのか、何をしてみせるのか、かいくれ見当のつかないものばかりでした。と同時にかつての猫八のような、松井源水のような、ああした身についた芸……とにかく芸とよぶことの出来るもの、一流の、外にどこにも類をもとめることの出来ないことさらなもの……そうした技術……そうした、すぐれた、錬磨された技術をみせたり聴かせたりする寂しい漂泊者を、その広っ場の、どこにもわれわれ見出すことが出来ませんでした。
――失望してわれわれ、最後の大きな輪……多分には、いずれは字でも書いて見せたんでしょう、うしろ鉢巻の、汚れくきったワイシャツ一つの男が細長い紙を地べたに拡げて、何か矢っ張、しきりにそう講釈をいっている群のなかを出抜けたとき、たまたまそこに、あたりのそうしたいたずらな人だかりに頓着せず、おでんや、パンや、アイスクリームやそうした身近に散在するものの折々の異動にも心を止めず、薄い茣座(ござ)のうえに一人つつましく足を組んで熱心に鋸の目を立てている老人のいるのをみつけました。勿論そのまえにはすでに出来上ったものとおぼしい鋸が、ほんのわずか、しるしばかりに並んでいます。――いかにもそれが「深川」らしい、不動さまの境内らしい、そうしてそこに梅雨の来るまえらしい、季節的な鬱屈をわれわれに感じさせました。
永井荷風先生に「深川の唄」というお作があります。明治四十二年の二月の「趣味」……そのころあった「趣味」という雑誌に出たもので、四十二年といえば、先生まだ「牡丹の客」も「歓楽」も「すみだ川」も書いておいでになりません。西洋から帰ったばかりの主人公がある偶然の機会に昔馴染の深川をたずね、不動さまの境内に、おぼつかなく三味線を抱えて「秋の夜」をうたう盲目のものもらいをみ出して、傾く冬の日かげの中にうつし身のいい知れぬ哀しみを知るという筋の、「夕日が左手の梅林から流れて盲人の横顔を照す。しゃがんだ哀れな影が如何にも薄く、後の石垣にうつる。石垣に築いた石の一班毎には、奉納者の名前が赤い字で彫りつけてある。芸者、芸人、鳶者、芝居の出方、ばくち打、皆近世に関係のない名ばかりである。」だの「自分はいつまでもいつまでも、暮行くこの深川の夕日を浴び、迷信の霊境、内陣の石垣の下に仔んで、ここにかうして歌沢の端唄を聴いていたいと思った。永代橋を渡って帰って行くのが、堪へられぬほど辛く思けれた。いっそ明治が生んだ江戸詩人斎藤緑雨の如く滅びてしまひたいやうな気がした。」
だのといわれたあと「ああ然し、自分は遂に帰らねばなるまい。それが自分の運命だ。ああ、河を隔て、堀割を越え、坂を上って遠く行く大久保の森のかげ、自分の書斎の机には、ワグナーの画像の下に、ニイチエの詩ザラツストラの一巻が開かれたままに自分を待つでゐる……」と、先生、その作の最後を結んでおいでになります。
『浅草風土記』 中公文庫
『浅草風土記』 中公文庫
2024-11-29 10:11
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