霧笛 №1 [文芸美術の森]
霧笛 1
作家 大佛次郎
窓の外の道路に、人の来る足音が聞えたときに、千代吉は我知らず身を起⊥ていた。宵の口からさびしい居留地の屋敷町であった。それに、ただ外を通るだけの、このへんの居住者だったら、屋敷仕えの日本人にしても靴をはいているはずなんだが、千代吉が聞いたのは小石につまずいた駒下駄(こまげた)の音だった。それも、近くまで来て、急に音をひそめて近寄ってきたものなのである。
(来た!)
その感じは、なにか、それまでの、ちっとも落着かなかった気持にあるかいをつけてくれたようでむしろ思いがけないものだった。
千代吉は、耳をたてて外の気配を聞いた。怖れる気持は微塵(みじん)もなかった。案のとおり、すぐ窓の下で、ひくい口笛を吹く音が、しんとした外の夜気の中に流れた。
千代吉は立っていって、まだ開けてあったガラス窓から首を出した。
夏の晩だった。通りを隔てたフランスのプレッキマンの屋敷でも、まだ窓から灯影(ほかげ)が庭にさして、よく警た植込みの影が黒々としていた。通りまで伸びている枝の即に鉄の柵がめぐらしてある。口笛を吹いた男は、その前に立って、煙草(たばこ)の火を赤くぽつんと、ともしている。
白がすりの単衣を着て髪をきれいに分けた女のようにきざな優形の男なのだ。どこかの塾生だという話だけれど、そんなことはほんとうのことかどうかわからない。
にらむように男に向けた千代吉の目には、底深い軽蔑(けいべつ)の色だけがこめられていた。独立祭の花火の晩に向うから千代吉に突っかかってきて、かなわないと見て捨てぜりふを残して逃げた弱虫なんだ。今日向うから呼びだしに来たというのは仲間をかたらって、その復讐をするつもりなのだ。なんとかの身内を知らねえかといった。
「今晩は」
と、なれなれしい声でいって、闇の中で生白(なまじろ)い顔が笑った。
「兄(あん)ちゃん、手紙、見たかい?」
千代吉は答えなかった。育ちぎかりのこの半年で、めっきり幅の広くなった肩が窓にいっぱいになっている。異人屋敷の食事は、油っこくて、肉類が多い。ここへ来る前は、悪いときははきだめのものまで食ったことのある千代吉が、急に肥えたのだった。境遇の自然と変ったせいだった。
男は千代吉が黙っているのを見て煙草を横に啣(くわ)えた。
「来るんだろうね?」
声にそれとない威嚇(いかく)の響がこめられてきていた。
千代吉は無言のまま大きい身体を引っこめて窓を閉めた。それから、机のランプを吹き消して、出口のドアのところまで行った。そのとき、夕方台所からそっと持ってきて戸棚の隅に入れておいた肉切庖丁のことが頭にうかんだ。相手が幾人いるかわからないから隠して持っていくつもりだったのだ。母屋の主人の書斎の机の引出しにあるピストルを持ってくることまで一応考えたくらいだったが、それだけは主人に知れる場合の怖ろしさを思って、ただ空想しただけであった。
(なんだって庖丁なんか持ってきておいたんだろう?)
千代吉は、二時間前の自分を軽蔑しながら狭い階段を降りた。下は主人の馬車を入れる小屋になっている。裏門はもう閉めてあった。かんぬきをぬこうとしたが不用心なのに気がついて、側(そば)の鉄柵を乗り越すことにした。
気がついてみると、白がすりのほかに、もう一人来ていたのだ。鉄柵の上へ身体を乗りだしたとたんに、隣屋敷の門の前に黒い影が動いたのが、それであった。そいつは千代吉の前に出てこなかった。どこへ廃れたのか二度と見えなくなった。
白がすりが薄く笑って、
「じゃア……」
と、歩きだしただけだ。千代吉は、まるい肩をまるめて、牛のようにのっそりと尾いて
いった。いつどこから襲われても相手をたたきのめすだけの自信が、実際の年齢の二十一歳よりずっとませた大きな身体の筋肉に、強いはずみをこもらせていた。/
これまでが、これまでであった。殴られたり蹴られたりするようなことが、千代吉にとっては珍しいことでなかった。思いだしてみれば、赤ん坊のときから殴られて育ってきたようであった。かなわないと思ったら黙って殴られているのである。気の遠くなるような苦痛の中に、千代吉はおぼろげに理由の知れない快感さえも感じる場合があった。じっとして目をつぶっていると、こちらが物足りないと思うくらい、殴る方で疲れてしまうのである。
「いい加減、骨身にこたえたろう」
そういう声が耳に入る。
千代吉が黙っていても、たいていそれで解決する。警察でも、こちらから有無をいわずに罪を認めてしまえば、痛い目に逢うことはない。いつから、そのこつを呑みこんだのか、千代吉はそう信じている。
ただ、それが今夜の相手のように、世間の堅気(かたぎ)でない輩(てあい)、やくざな仲間が相手の場合には、事情は反対であった。この社会ほど卑怯(ひきょう)で臆病(おくびょう)な人間のそろっているところはなかった。下手に出たらどこまでも踏みつけられる。調子次第でどんな残忍なことでもやらかすのである。こんな相手には、死力を尽して闘わなければならない。
まず、相手を多少でも恐怖させたら、向うは普通よりも弱くなる。勝負はほとんどこちらのものなのである。逆に、こちらが臆病に出たら、どこまで、やられるかわからない。千代吉は、それを知っている。
木立(こだち)の間に赤いものが見えたと思うと、月だった。白がすりの男について歩いている道路がいつもより明るかったのも、そのせいだ。月は、怖ろしくまるく大きかった。道路には人がいないが、歩きながら見る両側の異人館の窓はまだ明るいし、庭で話し声がしている。芝生へ椅子を出して涼んでいるのに違いないのだ。
白がすりの男は、啣(くわ)えていた煙草が燃えつきたので、裸から袋をだして、新しい一本を口に啣えた。平静らしく見せているが、落着いていなかった。
「兄ちゃんも、どうだい?」
と、わざとなれなれしくいった。
千代膏は相手が袋から押しだしてくれたのを、抜き取ると黙って男の目の前で二つに折って、地面に捨てた。相手の見せた笑い顔は、急に腺病なものになった。
「まあ、いいや。とにかく、行こう。煙草を喫(す)うなら、いまのうちなんだが…⊥
靴の音が行く手に聞えた。
脚の長い犬が先へ走ってきて、石垣の陰になっている暗(やみ)の中から口笛を吹きながら飼主の白服の姿が出てきた。千代吉がはっとしたのは、その異人が、自分の主人の親しくしているのっぽのディセムというイギリス人だったからだ。
ディセムが主人に告げることはないだろうか?
不安は瞬間のものだった。ディセムは、手巾(ハンケチ)をだして鼻をふきながら、千代吉とは気がつかずに大股で、靴の音を規則正しく、通り過ぎていった。
「こっちだ!」
と、白がすりの男は、道ばたの空地へ登りながら指図した。草っ原を、港の一面に見える
崖の鼻まで行くのだ。二、三本、枝の繁った木が月あかりの中に黒々と立っているところがある。その木の下に誰かいて、ベンチに腰かけたままこちらを向いて待っている。
(一人なのか?)
千代吉は、多少意外に感じた。草の中から出て、向うの顔を真向(まっこう)から見おろすと、大きな男で、上着のないシャツの胸をあけて、どす黒く笑いながらいなにかいおうとした。
2024-11-29 10:08
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