多摩のむかし道と伝説の旅 №135 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
多摩のむかし道と伝説の旅(№31)
-古歌に詠われた向ノ岡から多摩の横山道を行く-1
原田環爾
-古歌に詠われた向ノ岡から多摩の横山道を行く-1
原田環爾
万葉の昔、多摩丘陵は多摩の横山と呼ばれた。縦の川としての多摩川に対し、その右岸一帯に横へ長々と伸びるなだらかな丘陵を総称して多摩の横山と呼んだ。多摩の横山には古代、辺境の防備兵として北九州へ赴いた防人達が歩いた道筋や、中世の頃、東国の武士達が武門の都鎌倉との往還に踏み固めた古道が残されている。その横山の尾根筋には今日都市基盤整備公団によって全長9.5kmの「多摩よこやまの道」が整備されている。また多摩の横山の東端の多摩川を望む連光寺辺りは古くから向ノ岡(むかいのおか)と呼ばれた。武蔵国の国衙があった府中から多摩川の対岸に優美な丘が望めたことからこの名があるのであろう。明治天皇の行幸の地としても知られ、丘陵上には広大な桜ヶ丘公園がある。多摩の横山には万葉集に多摩の防人の妻が詠んだ歌が、また向ノ岡には平安朝の歌人小野小町の詠んだ歌が残されている。今回はこれら古歌に詠まれた向ノ岡から多摩の横山を辿る旅をしたい。。京王聖蹟桜ヶ丘駅を出発し大栗川と乞田川の合流点を経て向ノ岡に上り、桜ヶ丘公園を抜け。多摩東公園近傍の丘の上広場から多摩よこやまの道に入る。よこやま道には唐木田までの東路と唐木田から長池公園までの西路がある。本稿では東路を終着小田急線唐木田駅までの実踏経験を詳述し、西路については伝説等を簡潔に紹介する。以下3章(Ⅰ向ノ岡、Ⅱよこやまの道東路、Ⅲよこやまの道西路)}に分けて順次解説する。
[Ⅰ]古歌に詠まれた向ノ丘を行く
聖蹟桜ヶ丘駅から車が行き交う賑やかな川崎街道に出る。街道に沿って東へ進む。歩道に楽人のプラッツ像という面白い彫像が立っている。鎌倉街道との大きな交差点に出る。交差点を渡って街道の東側歩道に入る。新大栗橋で大栗川を渡り、その橋の袂から川沿いの小道に入るとそこは乞田川との分岐点になっている。分岐点の乞田川の上には向ノ岡橋という名の小橋が架かっている。小橋の袂から大栗川の下流を望むと向ノ岡の丘陵へ上がって行くように一定の勾配をつけて架かる大きな新向ノ岡橋が目に入る。向ノ岡は古より多摩の横山の一つとして和歌にも詠われた丘陵だ。乞田川左岸に沿って堤の道を進むと程なく行幸橋と呼ぶいかにも一時代昔の名前の橋と人道橋がある。かつて明治天皇がこの地で兎狩りをした折に渡ったことを記念して名付けられたのであろう。ここから向ノ岡の丘陵越えが始まる。
行幸橋を渡り上り坂を左にカーブしつつ上って行く。坂道の途中左手には春日神社があるが、切り通しの上なのでうっかりすると見過ごしてしまう。由緒書によれば連光寺一帯は稲毛三郎重成の所領で、平安末の治承5年(1181)建立という。小さな神社であるが境内に大欅が2本立っている。更に坂道を進むとバス停「春日神社」があり、そのすぐ横の丁字帯から右側の丘陵に立ち並ぶ住宅街へ入る記念館通りと言う道がある。都立桜ヶ丘公園はこの記念館通りに入るのであるが、それは一旦後に回して、先にこの近くにある2つの旧跡に立ち寄ることにする。
バス停先から左斜めに入る街路を採る。道は大きく右に回り込む上り坂となり、上がり切ると川崎街道に架かる桜橋の袂に至るのであるが、その途中に対鴎台公園という一風変った名の公園がある。園内の奥には「明治天皇行幸所対鴎荘」と刻んだ石碑が立っている。対鴎荘とは明治維新で活躍した公卿三条実美公の別荘に由来する。別荘は元は隅田川河畔の橋場(台東区)にあったもので、三条実美が明治6年(18733)に建てた。明治天皇は征韓論の政争で病に倒れた実美公を対鴎荘に見舞いに訪れたという。実美の死後、対鴎荘を買い取った豪商が昭和4年(1929)保存のために多摩の連光寺に移築した。当初は観光客も多く訪れ、戦後は料亭として利用されたが、老朽化が激しく昭和63年(1988)取り壊された。そこで近年対鴎荘のあったごく近くのこの高台にその名に因んで対鴎台公園が整備されたという。(この項つづく)
バス停先から左斜めに入る街路を採る。道は大きく右に回り込む上り坂となり、上がり切ると川崎街道に架かる桜橋の袂に至るのであるが、その途中に対鴎台公園という一風変った名の公園がある。園内の奥には「明治天皇行幸所対鴎荘」と刻んだ石碑が立っている。対鴎荘とは明治維新で活躍した公卿三条実美公の別荘に由来する。別荘は元は隅田川河畔の橋場(台東区)にあったもので、三条実美が明治6年(18733)に建てた。明治天皇は征韓論の政争で病に倒れた実美公を対鴎荘に見舞いに訪れたという。実美の死後、対鴎荘を買い取った豪商が昭和4年(1929)保存のために多摩の連光寺に移築した。当初は観光客も多く訪れ、戦後は料亭として利用されたが、老朽化が激しく昭和63年(1988)取り壊された。そこで近年対鴎荘のあったごく近くのこの高台にその名に因んで対鴎台公園が整備されたという。(この項つづく)
2024-11-29 09:48
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