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夕焼け小焼け №48 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

プラークの栗並木の下で 3

            鈴木茂夫

  10月はじめ、三宅久之が弾んだ声で部室に現れた。恋人の柳平秀子さんと手をつないでいる。
 「やあおはよう。やったぞ、俺は」
 「三宅さん、どうしたの」
 「毎日新聞に合格したよ」
 その場にいた10数人が
 「ひぁあ、おめでとう三宅さん」
 「競争倍率が100倍を超えていたっていいますよ」
 「入社試験のなにがよかったんですか」
 「答案を書く一般社会、英語はもちろんだけど、面接で点を稼いだと思う」
 「毎日新聞を狙ってたんですよね」
 「ありがとう。そうだ。毎日を本命にしていたからな」
 「三宅さんは社会部の事件記者するの」
 「俺はだ。政治部にいきたい」
 「秀子さんもよかったね」
 「俺は給料がもらえるから、世帯をもてる」
 この一言には重みがあった。就職した三宅はもはや学生の枠組みにはいない。

 坂田純ちゃんがふらっと部室にやってきた、手にしていたカバンを机の上に置いた。授業に出ていたようだ。私は声をかけた。
 「純ちゃん、君は就職、どうなつてるの」
 純ちゃんは、いつもの笑顔を浮かべた。
 「うん、それか。なんとか決まったよ」
 「ほんと、よかったね。どこなの」
 「三越だよ」
 「えっ、三越って、百貨店の三越なの」
 「おめでとう。三越は慶應義塾の優秀な学生を採用すると言われているじゃない」
 「そうなんだよね。早稻田からの採用は俺一人みたい」
 純ちゃんは、ごく普通の話をしているようだが、三越が早稻田の学生を採用するのもあまりないことだ。
 「純ちゃんは試験を受けたの」
 「いや、三越に行ったら、採用内定と言われたんだ。紙の試験問題は関係ないよ」
 話をきいていた連中は、唖然として声も出ない。純ちゃんには、よほど力のある三井系の人が推薦しているに違いない。純ちゃんは家系のことなぞ口にしたことはない。でもいざとなると、その家系が威力を発揮したのだ。
 話の接ぎ穂がなく、就職の話はそれだけで終わった。

 私たちが劇の中で歌った宇野誠一郎さん作曲の『第七旅団の歌』は、いつしか歌い継がれスペイン内戦で歌われていたとして、過激派学生の間で愛唱された。

  第七旅団の歌
  俺〈オイ〉らの生れはここではないが
  俺らの胸はともに高鳴る
  頭の上にはおんなじ旗だ
  容赦なく、またつねに容赦求めず
  俺らは戦うために来たのだ
  第七旅団のゆくところ
  ファシストは滅ぶ
  第七旅団のゆくところ
  ファシストは滅ぶ
  進め! 進め!

  妻と老〈オイ〉とを家に残して
  世界の果てから集まり来〈コ〉しは
  一歩も退却するためならず
  俺らの数は少いけれど
  死人〈シビト〉も俺らと一緒に進む。
  第七旅団のゆくところ
  ファシストは滅ぶ
  第七旅団のゆくところ
  ファシストは滅ぶ
  進め! 進め!

  1963年夏、機会があって私は一人でプラハを訪れた。 モルダウ河が街を貫通し、噂の通り、百塔の街だ。第二次大戦の戦禍をあまり受けていないこの街は落ちついている。
 私は16ミリ撮影機を手に、テレビ局に飛び込んだ。1日仕事でプラハを撮りたいので援助して欲しいと申し述べると、男女二人のディレクター・ボリス、イリナさんが快諾してくれた。二人は手際良く市内の著名な建造物に案内してくれた。
 ボリスさんが、
 「あなたはロシア語しか話さないの」
 私は、
 「英語でも良いですけど」
 「それはいい。私たちはロシア語を話したくないの。つまりソビエト・ロシアは好きではないから」
 私も英語に切り替えた。
 「1945年5月、ソビエトの赤軍がプラハを解放してくれたではないですか」
 と反問すると、
 イリナさんが、
 「ソビエトは,ソビエトの赤軍がプラハを解放したと主張しているわ。だけどですね。
 あの年の4月から5月にかけて、ソビエトから民衆が蜂起するようにとの連絡があり、多くの市民がパルチザンとしてそれに参加したの。少数で貧弱な武器のパルチザンは、ナチスの兵力の前に多くの人が犠牲になったの。私たちはソ連に支援を求めたの。ソ連は何もしてくれなかったわ。パルチザンが壊滅状態になり、ナチスの軍隊が撤退してから,ソ連の赤軍は姿を見せたの。だから私たちは、今もソ連を信頼していないの」
 こんな話は日本で聞いたことがなかった。

 私は学生の頃、「プラーグの栗並木の下で」に関わったと話した。二人はそんな戯曲は全く知らないと答えた。プラハで上演したら、民衆は大反発するでしょう。
 そしてプラハには栗並木の並木道は存在しない。マロニエの並木道は誰もが知っている。原題の POD  KASHTANNAMI  PRAGI  の KASHTANNにはマロニエ,栗の意味があるから,間違えてそうなったんでしょうねと教えてくれた。

 私は「プラーグの栗並木の下で」で、ソビエトの国際連帯に陶酔していたのだ。プラハの街、ボリスさん、イリナさんは,私を目覚めさせてくれた。

 1968年4月、チェコのドブチェク第一書記は、社会主義路線を転換し人間の顔をした社会主義、つまり民主主義改革をすすめると宣言した。
これにたいしソ連は「社会主義陣営全体の利益のためには、一国の主権は制限されても良い」と主張。8月17日にソ連軍はじめワルシャワ条約機構の5カ国の兵力を動員してチェコに侵攻。チェコの民主化を粉砕した。

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