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雑記帳2024-11-15 [代表・玲子の雑記帳]

2024-11-15
◆2011年の東日本大震災は福島に未曾有の原発事故を引き起こしました。翌年から始まった「ふくしまの今を語る人」プロジェクトから私たちは毎年、語る人をお呼びして復興の歩みを聞く機会を持ちました。最初は何か力になれることがあればなどと思ったのに、実は私たちのほうが励まされていたことに気が付いておどろいたものです。

放射能の除染が進んで帰還がはじまったばかりの飯館村をたずねときには、村役場から見える、日当たりの良い、村の一番いい場所に小学校を建てて村民の帰還を待つ、村の意気込みに感動したのを今もおぼえています。飯館村は平成の時代に合併を押しすすめた政策にのることなく、村で自立することを選んだ自治体でした。
その福島の復興の様子を訪ねるツアーがあるというので、一も二もなく参加を決めました。

午前10時福島駅集合。総勢16人。レンタカーで向かった先は二本松です。ソーラーシェアリングの実態を学ぶのが目的でした。

ソーラーシェアリングとは、農業用地に支柱を立てて上部空間に太陽光発電設備を設置し、農業を営みながら太陽光発電をおこなうシステムのことです。日本語では「営農型太陽光発電」と呼ばれています。よく目にするパネルを地面近くに設置するのではなく、支柱をたてるという所がみそなのです。パネルの下は農地として作物を栽培することができます。農作物と太陽光パネルで太陽の日差しを「シェア」して活用しているので、「ソーラーシェアリング」と命名されたのです。ちなみにソーラーシェアリング(solar sharing)は和製英語です。

二本松営農ソーラーに到着するころには雨は本降りになっていました。用意してもらった長靴に履き替えて畑へ。6ヘクタールの広い農地にパネルがはりめぐらされて、葡萄や人参、えごま、そば、大豆などが栽培されています。一角は牛の放牧地にもなっていました。

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ソーラーシェアリングの下では牛の放牧も可能

代表の近藤恵さんに話を聞きました。
二本松で採用しているのはドイツからの輸入の「垂直営農ソーラー」。省エネ最優先の国ドイツはソーラーシェアリングの先進国なのです。両面パネルが地面と垂直にたつ。東西に向けて設置すれば発電のピークを朝夕にずらすこともできるそうです。

東日本大震災で原発事故がおきたとき、戦争よりひどいと思ったそうです。先の見えない、希望もないこの地でどういきていくのか。その日から今日まで願ってきたのは「(同じ汗をかくなら)怒りではなく、感謝と喜びの汗をかきたい」ということだったといいます。
既に耕作放棄地だった農地を買いとってはじめたソーラーシェアリングの営農は農地に負担をかけることもない。有機農業を営むいっぽうで、自らエネルギーを作り売電する、新しい農業の形ではありませんか。

二本松駅の近くにある市民交流センターでにはいっている食堂の「杉の家」さんは浪江焼きそばで有名です。浪江焼きそばは福島県双葉町浪江のソウルフード。店主は原発事故で避難してきた二本松で店を再開したとか。太目の麺250gに存在感ある豚肉、100g以上はいったもやしの一皿は食べ応え十分。こちらは一皿でおなか一杯になったというのに、高校生らしき一団はこの浪江焼きそばに丼のセットをたのむという、見事な食べっぷりでした。

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浪江焼きそば

雨だったので暗くなるのも早く、「いいだていちごランド」でハウス栽培のいちごをみたあと、夕食は田舎レストラン「ラ・カッセ」でイタリアンを。真っ暗だったので、外観はまるでわからなかったのですが、建物は土地の木材を使って建てられています。もともと秋田出身の芸術家が飯館の風景に魅せられて建てたアトリエでしたが、冬の寒さに数年で引き払って空き家になっていたのをレストランにしたのでした。シェフの佐藤さんによると、店名の「ラ・カッセ」は村の人がよくつかう「寄ってかっせ」「食べてかっせ」(よってかない?食べてかない?)から採ったとのことです。
素材は勿論地産地消。飯館の美味しい秋野菜をたっぷりに、飯館牛のミートローフをメインに、パスタはカボチャとサツマイモのクリームパスタ。実は飯館の南瓜はおいしいので評判なのです。

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レストランの真ん中に立つ大黒柱も村の産
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前菜は村の美味しい秋野菜
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メインは飯館牛のミートローフ
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南瓜とサツマイモのクリームパスタ

宿泊先は村の農業研修施設「きらり」です。村営の宿泊施設「きこり」に隣接しています。今年7月のオープンしたばかりの施設はお洒落で快適。しかも大浴場は温泉です。ただしホテルではないのでアメニティグッズのようなサービスはない、パジャマは持参、朝食は自炊。学生の頃の合宿を思い出しますね。

朝おきると雨もあがり、建物は池を見下ろす高台の林の中にある、見事なロケーションでした。もうちょっと東京に近ければ避暑に来たいと、誰かのつぶやきも聞こえました。

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池を見下ろす雑木林も色づいて
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宿泊施設「きらり」

2日目は飯館村大久保・外内集会所で「いいだて結い農園」のみなさんと交流しました。飯館村はかって村民主体の元気な村おこしで全国の注目を集めていました。ブランドの「飯館牛」も全国一流の牛肉にまけない味といわれるほどになっていたところを襲ったのが原発事故でした。全村避難から帰還して、一度は失った村の暮らしを再び取り戻すべく立ち上がったのが「結い農園」でした。 代表の長正さんは、全国一の農民文化村を目指すと言います。

阿武隈の高地にある飯館の里山の風景は誠に美しい。そこに広がる畑で今、栽培に取り組んでいるのがエゴマです。畑を見学して、作業場で選別、集会所ではエゴマをつかった「じゅうねんもち」作りを体験しました。

そこでわかったこと。エゴマオイルは何故高いのか。今はやりのオメガ3などの成分が優れているのが理由ではなく、とにかく手間がかかるということでした。

あの小さいエゴマの実をかりとってから選別を重ねて口に入るまで、すべて機械に頼らずに人の手でやり通すのはそれは手間のかかる作業なのです。までいに(丁寧に)それができるのは結い農園が高齢者の集団だからでしょうか。

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エゴマ畑の広がる里山
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収穫後脱穀したエゴマをさらに手で選別して精製するのに時間がかかる
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村の集会所
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煎ったエゴマをすりつぶすのも人苦労
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じゅうねんもちの出来上がり。黒いのはあんこのぼたもち

じゅうねんは平仮名ですが、意味は十年です。「じゅうねん味噌」は、十年持つとも、食べれば十年寿命が伸びるともいわれています。

午後訪問した「図図(ずっと)倉庫」は、思いがけず、想像以上の施設でした。

ぞぞ震災で撤退した会社の倉庫を活用して、アート展や映画やコンサート等のイベントを企画運営しているのは都会から来た若者たちです。

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図図巻

驚いたのは広い倉庫の半分を占めているのが、環境を学ぶスペースだったことです。
地球環境を構成する様々な物質、環境世界のありかたにふれ、地球の未来を考えようというプログラムの発信基地がこの倉庫だったのです。
無ぞうさに積んであったリ-フレットの中に「環境世界への旅」がありました。

環境世界とは。ドイツの生物学者ヤーコブ・フォン・ユクスキュルが提唱した概念です。動植物、原子や分子、私たち人類も含めたすべての生物は、それぞれが主体的な知覚世界をもっています。すべての生物は自分自身の知覚によってのみ世界を理解しているので、私たち人間が五感を使って認識している世界もそのひとつにすぎません。
すべての生物に等しく存在するのが環境なのではなく、個々の生物が己の知覚で捉え構築した独自の世界としての環境は無数に存在するのです。環境も。この概念から入れば人類はいやでも謙虚にならざるをえない。
原発事故で放射性物質が放出されたことをきっかけに、自然環境との関係をみなおそうと、村では様々な観測や実験が行われています。
先ず、宇宙の誕生と同時に一番初めにうまれたのが素粒子です。環境を語るのにここから入るところが凄い。グローバルどころかユニバーサルです。自然界のミクロな世界、原子や放射線をこの倉庫で観測することから環境世界への旅がはじまります。外に出れば日本唯一の惑星観測所で宇宙というマクロな環境世界がまっています。観測所は東北大学によって設置されました。

観測によって見出された現在の様々な環境課題に対し、次は実験です。飯館牛を復活させ、地元食材で作る、これも実験です。前日のレストラン、ラ・カッセもその一員であったことに気付きました。実験はさらに、里山と森を再生することにつながっていく。村全体が実験場なのです。、

倉庫を案内してくれたのは若い女性でした。彼女のお父上が大学で物理を教える先生だとあとで知りました。理系に弱い私は素粒子の話は苦手ですが、倉庫内の様々な展示から、こどもたちは、小さなミクロの環境世界を観測すると同時に、その世界と共存してきた飯館村の歴史を学びます。ここでは放射線自体は悪者ではありません。村が目指す未来が、2日間に訪ねた人や畑とつながっていきます。それを発信しているのが他所から来た若者だということが面白いではありませんか。

じつは、飯館村は、そのなりたちから、移住者を受け入れやすい土壌があったことを知りました。災害や飢饉で人口が極端に減った時も、移住者がそれをうめてきた歴史がありました。帰還者が避難前の半分にもならない中で、21世紀に再生をかける飯館の思いが伝わってきました。

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