雑記帳2024-11-1 [代表・玲子の雑記帳]
2024-11-1
◆江戸中期、同じ場所で同じ時代に活躍した画家たちを産んだ「京都ルネサンス」は、伊藤若冲、与謝蕪村につづいて円山応挙です。10月はその1回目でした。
応挙の凄いところは、それまで日本絵画になかった写生をもちこんだところです。
江戸時代、狩野派の粉本主義は、お手本を模写し、筆使いまで忠実に学び継承することが大切とされていました。いわば型の文化だったのです。応挙は型にとらわれず、目の前のものを観察して正確に写しとろうとしました。写生に基づく現実感溢れる表現は、それまでの伝統的な装飾文化に新風を吹き込み、日本絵画史に革命を起こした画家でした。同時に、絵画の様々なジャンルに挑戦、近代日本画へとつながる道を開いて、全ては応挙に始まるとさえ言われています。
応挙の作品の多くが重要文化財になっています。そのひとつ、「写生図鑑」を開くと、昆虫やや草花、動物が精緻に、いきいきと描かれています。例えば、「たけのこ」の図をクロ-ズアップしてみると、笹の露、蜘蛛や蛍、イナゴや小鳥たち、竹だって一種類ではありません。そして、生写した図のいたるところに細かいメモが残っています。これは後に本画を描くのを想定して応挙が書き込んだものです。
応挙はこの写生図鑑のあと、研鑽をつんで、13年後に本画を描いています。


弟子の山埼鶴嶺の描いた応挙像を見ると、いかにも実直そうです。まさにそのとおり、生涯を通じて徳実の人だったようで、多くの弟子に恵まれました。一派は、弟子たちの集まった応挙の住居が円山にあったので「円山派」と呼ばれ、門下の呉春の開いた「四条派」と合わせて「円山四条派」と呼ばれるようになりました。

1733年(享保8)、応挙は丹波国穴太(あのう)村の農家に生まれました。穴太は当時、石工の集団として知られていました。生家が貧しかったので、幼いうちに寺の小僧に出され、15歳で京都に出て、商家に奉公しながら絵を学ぶことになります。
商家の名は玩具屋の尾張屋。店で扱っていた眼鏡絵制作を手伝うために、応挙の腕を見込んだ主が狩野派に入門させてくれたのです。狩野派の絵を学びながら眼鏡絵の制作に励むなかで、応挙は西洋風の遠近法を身につけ、空間を立体的にとらえる修練をしたのです。尾張屋での奉公は後に応挙が絵師として立つのにおおいに役にたちました。
このころ、若冲は「動植綵絵」を描いています。


狩野派に学ぶ一方で、応挙は中国の水彩画にも親しんでいました。独立する前の「白鷹図」は狩野派を越えたリアルな捉え方をしており、淡い墨のグラデーションに応挙の独自性がでています。
南宋時代の絵画を模写した「花鳥図」は模写でありながら模写を越え、羽毛の柔らかさにも応挙の独自性が見られます。



34歳で初めて雅号「応挙」を名乗り、絵師として独立します。応挙の名は生涯変わることはありませんでした。
独立してからの応挙は様々なジャンルに挑戦し、全ては応挙に始めるといわれる多彩な世界を展開していきます。
先ず「淀川両岸図」をごらんください。

早朝に伏見の港を出た舟が、夕方、大阪に到着するまでを、船中の旅人の視点で両岸の風景がえがかれています。時間の経過と共にある川沿いに住む人々の暮らしぶりも入っています。舟に乗っている旅人の目線なので、風景は右岸と左岸ではさかさまになっています。12mを越える絵絹がつかわれた大作です。
応挙は人物画も描いています。下は「大石良雄図」。

玩具屋の尾張屋は人形もあつかていたので、応挙は眼鏡絵だけでなく、人形の色付けもしていました。現実感のある肉付けはその時代に学んだものです。「人物を描く際には裸体に衣装をつけるべし」という応挙の言葉が残っていますが、おそらく裸体は人形をモデルにしたものでしょう。まことに応挙は修練の人でした。
10月3日、若冲と応挙の合作屏風絵が発見されたと、各紙が大きく報じました。

当時、すぐ近くに住んでいた画家同士に合作を依頼するようなパトロンがいたことは、容易に想像できます。応挙の犬の絵に蕪村が賛を付けた色紙もみつかっています。
画家としての力量と温厚な人柄で多くの弟子を集めた応挙にも、パトロンがいました。天台宗問責寺院円満院門主祐常が良き理解者として、応挙を支えました。
10歳年上の祐常は本草学に関心があり、応挙に物事を観察する指導もしたようです。
「七難七福図巻」は、言葉よりもリアルな描写の方が説得力があると、祐常が依頼したもので、3年かけて制作された大作です。祐常が序文を書いています。

「牡丹孔雀図」は最上級の絵の具が使われ発色がいい。細部もみごとです。当時、孔雀茶屋なるものもあったようなので、恐らく実際に見て生写したのでしょう。

滝のない円満院のために描いた「大瀑布図」は中国山水画の「三遠法」を応用した描き方をしています。なだれ落ちた俯瞰部は畳の上にはうように置かれるので、近くによってみると、本物の滝をを見るような臨場感があります。「虚実一体空間」の先駆けとなった作品です。

祐常とのつき合いの中で画風を確立した応挙でしたが、41歳の時、祐常が亡くなりました。祐常がなくなった2年後に描いた六曲一双の「雲竜図屏風です。


右隻の、垂らし込みやぼかしなど水墨画の技巧をこらした迫力ある雲の描写は、まるで宙(そら)を駆け下りる、龍そのものが動いているように感じさせるのです。
左隻に使われている金泥は光を感じさせます。龍の表情は生き生きとし、うろこの一つ一つにも明暗があり、微妙な陰影には現実感と立体感があります。
いずれも、この世に存在しないものを現実にあるかのように感じさせる「虚の写生」なのです。
同じ年に応挙が描いた「雨竹風竹図屏風」です。右に雨竹、左に風竹が描かれています。墨色だけの画面は、一滴の雨も一陣の風も描かれていないにも拘らず、竹の葉や枝のしなりで雨竹なのか風竹なのかがわかります。描かれない気象や湿気さえ見る者に感じさせる、応挙の「生を写して気を描く」到達点でした。

◆10月の三光院の献立は、里いものあんかけがメインでした。9月には畑で収穫されたばかりの、一口ほどの小さかった里いもがすっかり大きくなりました。ご飯は大黒のあばんです。
通常「花の餐」のコースをいただていますが、今月は少し奮発して「月の餐」にしたところ、「粟麩のおでん」が加わりました。


2024-10-30 08:41
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