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海の見る夢 №87 [雑木林の四季]

       海の見る夢
         -ストレイ・シープー
                    澁澤京子

 元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。
 今、女性は月である。他に依って生き、他の光に依って輝く、病人のような青白い月である
                  ~『青踏』平塚らいてう  

私より一回り上の世代の女性には、「佳人」「令嬢」といった表現がぴったりと似合うような女性が時折いた。子供の時のガールスカウトのリーダーにそういった雰囲気を持つ女性がいたし、今だにそうしたエレガントな雰囲気を持っている年上の従妹がいる。その世代には、私の世代にはほとんど見られなくなった「佳人」という表現がぴったりくるような女性が、まだ存在していた。

映画女優が日常からかけ離れたスターであり、ある時代の理想的な女性像を演じていた時代があった。銀幕のスターも理想的女性像もなくなるのと同時に、いつしか女性からオーラが消えた。社会から理想・理念というものが消えるにつれて、社会全体が次第に子供っぽくなり、精神的に成熟した大人の女も少なくなってきたように思う。これはもちろん女性だけの問題ではなく、今は大人というものが存在しにくい時代で、男も女も時代によってつくられるものなのかもしれない。

昔、明治生まれのK先生から、外国の寄宿学校にいた時の同級生に「・・それは上品な美人がたくさんいたんだよ・・」という話を聞いたことがあった。明治生まれのK先生は、イギリスからアメリカに渡り、アメリカで舞踊を教えていた。明治の女性解放運動の中で先端を生きた、自立した女性の一人だったのである。

・・迷える子の中には美彌子のみではない、自分ももとより入っていたのである。~『三四郎』夏目漱石

漱石の小説には、あくまで男性と対等の、率直に物言う都会的な女性が数多く登場する。その中でも、最も生意気で魅力的なのが『三四郎』の美彌子ではないだろうか。漱石は美彌子を、平塚らいてうをモデルにして書いたといわれている。大学の庭を歩いている途中、三四郎が思わず立ち止まって見惚れてしまう美貌の持主が美彌子であるが、平塚らいてうの若い時の写真を見ると,細面に面高、二重瞼のフランス女優のような美人で、まさに「佳人」という表現がぴったりなのである。

明治十九年(1886)、明治政府の高級官僚の娘として生まれたらいてうは、お茶の水師範高等女学校に通っていた時分から級友と組み、学校の「良妻賢母教育」に反発した運動を行っていたというから、かなり早熟で優秀な女の子だったのだろう。のちにエレン・ケイに傾倒し、「母性主義・母性保護」を唱え、やはり良妻賢母教育に反対していた与謝野晶子から女性に対する「母性の押し付けではないか?」と反論されて論争となった。(晶子もエレガントな佳人といった趣がある)らいてうの、国家は子育て中の女性に支援金を出すべきであり、女性は「母性」から社会に対する利他主義に向かうものだという主張に対し、与謝野晶子はそれよりもまず女性の地位と賃金向上と経済的自立が大切なのではないか?と反論し、さらに晶子は子供は国家のものでも母親のものでもなく、子供は子供のものだという個人主義の人権を主張、二人の論争は今読んでも興味深い。この二人の論争には山川菊栄も加わり、(与謝野・平塚)両者とも一面の真実を述べていると断ったうえで、ただしこの問題は資本主義を構造的にとらえない限り解決できないだろうと、さらに平塚が主張する「国家による子育て支援」を実現するためには、富の再分配と経済格差の是正が必要ではないかと述べている。二人の論点を明確にし、鮮やかな社会分析と論理を展開した山川菊栄。私娼・公娼制度を最も厳しく批判したのも、貧しい労働者階級の女性の生活を知っていたのも社会主義者である山川菊栄で、彼女から見ると『青踏』はブルジョワ家庭の子女の集まりでしかなかったが、明晰な山川自身もまた武士階級、中流家庭の出身であり、真の説得力をもって貧困と階級差別について訴えたのは若くして獄死した金子文子だったかもしれない。

また、らいてうが論争したのは与謝野晶子だけではない。女子教育者である嘉悦孝子氏の実利的教育に対してはもっとも過激な批判を行っている。

・・たぶん氏は旧式な考えから勤倹貯蓄というようなことを、人間生活におけるもっとも重要なことであるかのごとくに信じていられるのでありましょう。~『物沸騰貴を感謝する人・嘉悦孝子氏へ』平塚らいてう

日本人の通俗道徳になっている勤倹貯蓄というものを早くから批判していたらいてうは鋭い。らいてうは、ほぼ同世代のケインズの本を読んだことがあったのだろうか?もちろん、貯蓄を否定し華美を礼賛したのでもなく、ケインズの「非自発的失業(働きたくても仕事がない失業状態)」の存在を、らいてうが主張していたとしてもおかしくはない。勤倹貯蓄に励んで地道に生きてさえいれば、人は豊で幸福な生活を送ることができる。貧しいのは本人に問題があるからだ・・といったところに落ち着いてしまう日本人の通俗道徳を批判したらいてう。森鴎外がらいてうの文章を読んで(晶子さんと並べ称する事が出来るかと思うのは平塚明子さんだ・・男の批評家にはあのくらい明快な筆で哲学上のことを書く人が一人もいない~『与謝野晶子さんについて』)と褒めたのも頷ける。勤倹貯蓄は自助努力と同じようにそれが美徳とされれば、特に今の時代の市場原理主義経済で起こる経済的不公平の隠れ蓑としてのモラルになってしまうからだ。

・・「怒るな、働け」というのが氏の日頃からの主義だそうです。しかし今日の我が国の経済組織では健康な男子が終日、否、夜を徹してまで働いてもなお食べていくだけの最低賃金さえ得難いというありさまではありませんか。それでもなお不平を鳴らさずに働けとおっしゃるつもりでしょうか?~『物沸騰貴を感謝する人・嘉悦孝子氏へ』平塚らいてう

これは、今の時代に書かれた文章として読んでも少しもおかしくない。そして、「勤倹貯蓄」という通俗道徳と妄信のために、いまだに生活保護受給者に対するバッシング、難民バッシングといったものが頻繁に起こり、困窮者に対する根本的な無関心というものが日本には蔓延しているんじゃないだろうか?

今から100年前に優れた女性運動家を多く輩出していたのにもかかわらず、女性参政権がやっと認められたのは、敗戦後のGHQによって制定された平和憲法によってだった。

一、 われわれは日本国憲法に定められた非武装、非交戦をあくまで守り抜く決意である
一、 世界平和の実現を指名とする我々は絶対中立を堅持し、二つの世界共存、統合にあらゆる平和的手段をもって努力する・・
              ~『非武装国日本女性の講和問題についての希望要項』

らいてうが起草したこの要項には、野上弥生子らも連名している。子供の貧困、若者の生活苦が問題になっているのに反して防衛費がうなぎのぼりに増大されている今の状況を、明治の新しい女たちが見たらどう思うだろう?過剰な警戒心と過剰防衛が、どんな残虐行為を生みだすかはプーチン、ネタニヤフの狂気を見ればよく分かる。かつて侵略国であったと同時に被爆国でもある日本は中立の立場に立って反戦を訴えらえる唯一の国なのではないだろうか?そして、そのためには、自国のアジア侵略と蛮行も反省しないといけないだろう。人間にはとてつもない残虐さも、又その逆の崇高な気高さも両方備わっているのである。

『青踏』の新しい女たちに影響を与えたイプセンの「人形の家」の上演は、私の祖父も母親と一緒に観劇している。「困ったお嫁さんだね。」と母親がつぶやいたのを祖父は記憶していて、何度かその話をしてくれた。祖父の母親の感想は当時の平均的日本人の感想だろう。青踏の女性たちに影響力をもっていたエレン・ケイはスウェーデン出身でイプセンはノルウェー人。ともに北欧の出身であり、現在、両国とも進んだ民主主義国家としてトップ3に入っているのは実に興味深い。

平塚らいてうは、漱石の弟子である森田草平と恋仲となり心中未遂事件を起こしている。なんとか事を丸く収めようと、漱石は二人を結婚させようとするが、当時、リベラルの漱石が意外と旧道徳に縛られた人間であったことに、らいてうは失望した。世間の非難は女性であるらいてうに集中し、この事件によって彼女がひどく傷ついたのは想像に難くない。漱石は弟子をかばう一方で、平塚家の面目を立てようと間に入って苦労した。森田草平がらいてうとの恋愛をモデルに書いた『煤煙』はベストセラーとなり、森田草平とらいてうの関係はそこで終わった。『三四郎』では美彌子を「無意識の偽善者」と揶揄するが、それは、ついに三四郎に本心を伝えられないまま、難題を吹っ掛けたり翻弄することしかできなかった美彌子の、シャイで人見知りの初心な一面をよくとらえていた。平塚らいてうという男勝りの女性の本質を見抜いていた漱石の洞察は鋭い。

孫の奥村直史によると、らいてうは少女時代は、哲学書を好む無口で引っ込み思案の少女だったが、学生時代に参禅して見性した後は、打って変わって積極的になり、疲れを知らない活動家になったという。らいてうの数々の羽目を外した大胆な行動も、見性後のエネルギーの奔流によるものと考えられるし、「元始、女性は太陽であった」という言葉も納得できる。また、らいてうがどんな場所に行っても物おじせず、常に自分の判断力に自信を持つ性格なのは、両親に溺愛されてのびのびと育ったためだろうと孫の奥村氏は見ている。孫の子守は苦手だったが、その存在感はいつも小さな子供に安心感を与えていたらいてう。そして、晩年のらいてうは、孫が部屋をのぞくと、線香を立てて結跏趺坐で静かに座っている様な内向的な孤独を愛する女性で、人混みを嫌って皇室の園遊会の誘いも断っていたという。~参照『平塚らいてう』奥村直史

『草枕』に出てくる謎の美女那美さんのモデル(前田卓 孫文など中国の革命家を支援した)といい、漱石は明治の「新しい女」たちの登場を温かい眼差しで見守っていた。らいてうが世間から非難の的にされたように、今でもこの国では個人の人格批判は盛んだが、その批判の矛先は決して社会や政治には向かわず、男も女も相変わらず「迷える子羊」のままなのではないだろうか。そして、今の日本は、アメリカという虎の威を借りた政治家や経済学者が跋扈する「青白い月」のような国なのである。  


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