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夕焼け小焼け №46 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

プラーグの栗並木の下で 1

            鈴木茂夫

 昭和27年(1952年)1月のある日。自由舞台年明けの部会だ。法学部地下の部室に40人はいた。
 幹事役の坂田純治が上座の机から立ち上がった。商学部の4年だ。上背がある。声ののびがいい。大学へ来るとまず部室に顔をだすが、授業にも出席している。、
 「今年の、昭和27年(1952年)4月28日には、サンフランシスコ平和条約により主権が回復する。占領時代が終わり日本が独立を回復する。7年に及ぶ占領期間が終わるんだ。じっくりと嬉しい気持ちがする。きょうは、今年の公演予定を決めたい。坪松君が腹案があるという。それを聞こう」
 坪松裕が立ち上がって一礼した。黒色の徳利セーターに進駐軍のフィールドコートを羽織っている。いつものいでたちだ。
 私にとって坪松は不思議な人だ。私と同年。都立の工業高等学校から教育学部教育学科に籍を置く。戦後の数年間に知識をえたのだろうが、日本の新劇の歴史に詳しい。口を開くと、1923年の関東大震災の翌年、土方与志と小山内薫が創設した築地小劇場の歴史を語る。そして戦後は千田是也,滝沢修、山本安英など多くの人材が巣立ったと流れるように語る。音楽にも詳しい。
 「第二次大戦ではナチス・ドイツと連合国の激しい闘いがあった。僕はそのなかで、ソビエトの作家・コン寸タンチン・ミハイロビッチ・シーモノフの『プラーグの栗並木の下で』を取り上げたい。シーモノフは1915年にペテログラード(現・サンクトペテルプルグ)に生まれた。現在37歳の働き盛りだ。第二次大戦で前線におもむき、「ユーゴスラビアの手帳」、「ロシアの人びと」、「昼となく夜となく」を発表。絶賛を受けた。スターリン賞、レーニン勲章、祖国戦争勲章などが与えられている」
 坪松はそこで座った。三宅久之が手を挙げた。三宅は独文科4年の異才だ。辛口の発言があるが優しい。個性的な風貌と人を惹きつける語りがある。大学の文化団体連合会の副会長だ。切符の販売などで力を発揮する。俺は早稻田だから朝日・毎日・読売の三大新聞のどこかに入ると言い切っている。
 「君がそこまで打ち込んでいるなら、それでいいよ。でもどういう芝居なのか話してよ」
 「三ちゃん、話を急ぎ過ぎたようだ。ちょっと長くなるけど話そう。この芝居は新協劇団、確認していないけど九州大学の劇団か上演したことがあるとか。1939年ナチスドイツはチェコスロバキアを制圧していた。 1945年5月9日、ソビエトはナチスに勝利した。戦勝記念日としている。第二次大戦は終局を迎えたのだ。ナチス・ドイツは連合国降伏した。チェコスロバキアの首都プラハにはナチスドイツの中央軍集団の総勢90万人の兵力がいた。これに対して連合国側はチェコスロバキア第一軍団はじめ総勢200万人がいた。5月9日、ソ連の赤軍はチェコスロバキアのパルチザン部隊とも協力してナチスドイツ軍を攻撃してプラハを解放した。5月11日、一部の残存していたナチス兵力を平定した。この芝居はこの日を設定している。チェコスロバキアがソビエト軍によって解放された日の首都プラハに生きる一家庭の動向を描いている。主題はソビエトのナチズムとの闘い。ソビエトの国際連帯。ソビエトのヒロイズムだね」
 「大きいテーマだな。ところで何幕なの」
 「黒板に書き出してみるよ

  第一幕
    第一場
      プラーグ郊外にあるフランチーシェク・プロハーズカ家のホール。夕方。
    第二場
      同じ場所。三日後。深夜十二時。
  第二幕
     同じ場所。二日後。朝。
  第三寞
     同じ場所。二日後。
  第四寞
     同じ場所。

 「四幕構成でも舞台装置は1セットで足りるね。やろうよ。そこまで話をしたんだから、 松さん、君が演出するんだろうね」
 「ここでみんなが賛同してくれればね」
 「異議なし」
 全員賛成の声。三宅が、
 「俺は来年卒業だ。今年は就職活動で忙しくなる。でも最後の仕事にプロデュースは引  き受ける」
 坂田が発言を求めた。
 「俺はね、みんなも知っているとおり、一年間、旧制の第二高等学院にいた。その時の級友に宇野誠一郎君がいる。今は第一文学部の仏文に在籍している。NHKの仕事も手がける優しいすぐれた音楽の専門家だ。この芝居の音楽の作曲を頼みたいと頼んだら、引き受けようと言ってくれた」
 音楽は素敵な仕上がりになるだろう。
 手回しよく台本が配られた。

 坪松が部屋の中心に座った。稽古のはじまりだ。みんな台本を手にしている。
 まず配役だ。
 「医者のプロハーズカ二は、坂田純ちゃんをあてたい」
 「次はその息子ステファンだ。茂夫君、君はどうだ」
思いがけないご指名だ。だが、
 「俺は思想的に元気溌剌じゃない。むしろ独文の浅野多喜雄君を推薦したい。そして俺はボシェーナと婚約している医者のマチェクがいい。」
 坪松はうなずいた。
 「プロハーズカ家の娘は」
 女声が聞こえた。
 「それは吉永春子さんじゃない」
 「主な配役はこんなところでいこう」
 坪松は微笑して台本を閉じた。

  フランチーシェク・プロハーズカ 医者
  ステファン その息子 チェコ軍団  大尉 26歳
  ボジェーナ その娘   ステファンと双生児 26歳
  リュードヴイク その息子 17歳
  ボグスラフ・チーヒー 詩人
  ユリー・マチェク   医者 ボジェーナの許婚者
  ジョキチ         盲目      38歳
  チェコ軍の民兵   二三人
  チェコ軍の将校
  以上 チェコ人

  イワン・アレクセーウィチ・ペトロフ ロシア軍大佐   38歳
  マーシャ・カノネンコヴア  ロシア軍曹長   落下傘部隊無線通信士 21歳
  ゴンチャレンコ            ロシア軍の自動車運転手
     以上 ロシア人
 
 稽古は本読みからだ。部室の机を縦2列に並べた。
 演出の坪松はタンかを切るように、
 「俺はこの芝居を、スタニスラフスキー・システムで仕上げる」
 坂田が驚いた表情だ。 
 「なんでもいいけど、スタニスってのは何なの。ロシア人の名前だったら、茂夫君君は知ってるのか」
 「それは有名な人だから名前だけは知ってるけど」
 「松さん、その人の本でもあるの」
 「スタニスラフスキー・システムを扱った日本語の本は出ていないよ」
  「松さん、それじゃ知りようがないよ」
 「俺が演劇雑誌のテアトロなどで読んだ少しばかりの記事が土台だ」
 「分かったよ。松さん、君のやりたいようにやればいい。それがスタニスラフスキー・システムかどうかはどうでもいいことだ。茂夫君もそう思わないか」
 「俺たちは仲間だ。お互いを信頼している。松さんのシステムでやるのがいいよ」
 
  坪松が台本とノートを手にして、
 「われわれの演劇のもっとも重要なことは、俳優の意識的な心理技術によって自然の無意識的なはたらきを刺激することだ。紋切型の『形で示す』演技じゃだめなんだよ。俳優の有機的な自然にひそむ潜在意識で創造される演技、つまり『役を生きる』んだ」
 「松さん、それ何なの」
 純ちゃんが噛みついた。坪松は平然としている。
 「思わず、演出者の任務とは何かということを読み上げてしまった。演劇雑誌のテアトロの紹介記事を書き抜いておいたんだ」
 「坪松さん、俺浅野としては、スタニスラフスキー・システムは小難しいね」
浅野は回りくどい表現に弱い。
  「藪から棒に、そんなこと言われたって分からないよ」
 坪松は平然している。
 「俳優は自己の肉体を表現手段とする芸術家だよ。新しい役を演じる場合、思いつく、あるいは使われてきた表現手段の中から、何かを選び取って表現する。或いは表現してきた。それを紋切り型と言って良い。欲しいのは俳優自身の中から、紋切り型ではない表現を造り出していくことだ。それはまさに『役を生きる』ことだよね。俺は小難しい注文を出してはいない。俳優の創造性に期待しているだけだ」

 私はふとした成り行きから、俳優をやることにになった。私は医者・マチェクだ。老練なプロハーズカ教授のお気に入りだ。そして教授の娘のボジェーナの婚約者だ。マチェクはボジェーナと落ちついた家庭を創り上げたいと思っている。今度の戦争とチェコの成り行きがどうなるのかにはあまり関心がない。だがボジェーナはチェコの将来について明確な意思を持っている。私はそれをめぐって議論になると、どちらにもつきかねる。ボジェーナと私の関係は冷えてきている。二人の関係は破局が予感される。
 俳優とは何かと考え込む。俳優は役を与えられて役を演じる。それを扮するというのだ。

 稽古は坪松のスタニスラフスキーシステムで進んだ。

     第一幕
  マチェク (登場)   どこへ行っていたんですか。二度もお寄りしたのに。
  ボジェーナ プラーグを散歩していましたの。
  マチェク 誰と
  ボジェーナ チーヒーさんと。
  マチェク (安心して)  そうですか。                                             
  ボジェーナ きょうは具合が悪そうね。どうかなさったの。
  マチェク あなた僕を愛していらっしゃらないということのほか、別に変わったことはありません。

  私は医師マチェクとして、許嫁ボジェーナとの関係に集中して見ていく。
 ボジェーナはナチスに対抗するとしてコンセントレーション・キャンプに収容されていたが、捕虜として捕らえられていたロシア軍の女性通信士マーシャとともに脱走して戻ってきた。その際の過酷な体験から、優柔不断な許嫁のマチェクの生き方を受け入れられない。プラハ解放に進撃してきたソビエト軍のペトロフ大佐に惹かれている。

 私は台本を慎重に読み、医師・マチェクという役を演じる。

 そうしたある日、稽古の合間の休憩時間に,純ちゃんに尋ねた。
 「君はさ、松さんのいう役に生きてるの」
 「はっきり言って、そのことは分からない。ペトロフ大佐のことは考えるよ。でも稽古場に入ってから、真剣に考えるね」
 「ふうん。スタニスラフスキーシステムは飲み込めてるの」
 「それはだ。まるで分かってないね。松があれこれ言うと、俺なりに考えてやる。すると松が『純ちゃん、いいね。それでいこう』という。つまりそれは俺がスタニスラフスキーシステムの役作りに合格したってことになるだろ。ともかく、俺は俺のやり方でやってるよ」
 「そうか、それを聞いて俺も安心したね。医師のマチェクも同じやり方でやってる」
  俺たちはスタニスラフスキーを理解していない。しかし、俺たちの演技には、坪松がOKを出す。坪松のOKが何より大切だ。
 こうして稽古は進んだ。
 三宅はいくつかの女子大を訪ね、
 「俺たちの芝居は、もっとも進んだ演出法でつくりあげてます。日本が独立を回復した今だから、ぜひ見に来てよ」
 こう言ってよびかけたという。三宅の弁舌は説得力がある。切符は予期していたより売れたとか。
 「学生演劇で赤字にはならない。ということは大成功だぜ」
 三宅の報告は嬉しかった。


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