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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №138 [文芸美術の森]

            シリーズ:江戸・洋風画の先駆者たち
            ~司馬江漢と亜欧堂田善~
                 第7回
             美術ジャーナリスト 斎藤陽一
       「亜欧堂(あおうどう)田(でん)善(ぜん)」 その1

 前回までは、6回にわたって、鎖国体制下の江戸時代において、「洋風画」の先駆をなした二人の画家のうち、司馬江漢(しばこうかん)の画業を紹介しましたが、今回からは、もう一人の画家・亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)について、その画業を紹介していきます。

≪司馬江漢と亜欧堂田善≫
 「司馬江漢」の冒頭でも触れましたが、もう一度、下図の年表を見て、二人の登場した時期を確認しておきます。

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 江戸時代中期に生れた司馬江漢と亜欧堂田善はほとんど同世代ですが、江戸生れ江戸育ちの司馬江漢は、天明3年(1747年)37歳の時に、日本最初の「腐蝕銅版画」(エッチング)の制作に成功していました。

 一方、東北の須賀川で生育した亜欧堂田善は、51歳頃に江戸に出て「銅版画」技術の習得を始めました。遅いスタートでしたが、「銅版画」の技術をより高度なものにしたのは亜欧堂田善でした。
 
≪亜欧堂田善、江戸に出て銅版画の研究≫

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 亜欧堂田善は、現在の福島県須賀川市に染物屋の次男として生まれました。当時、須賀川は、松平定信を藩主とする奥州・白河藩の領地でした。
 亜欧堂田善の本名は永田善吉。「田善」という号はこの本名に由来する。「亜欧堂」とは、のちに藩主・松平定信に銅版画を見せたところ、「亜細亜と欧州を眼前に見るようだ!」と褒められたことに由来すると言われています。

 幼い頃から絵を描くことが好きだった善吉は、染物の仕事のかたわら、絵を描くことに熱中しました。
 転機は、寛政6年(1794年)、善吉47歳の時に訪れる。白河藩主・松平定信に画才を認められ、仕えることになった。
 やがて永田善吉(亜欧堂田善)は、松平定信の命により、江戸に出て「銅版画」の研究にいそしむことになる。何と、田善51歳という遅い出発でした。
 しかし田善は、研鑽と工夫を重ね、司馬江漢が開発した「銅版画」の技術をさらに向上させ、より精緻で高度なものにしたのです。

≪亜欧堂田善、最初期の銅版画≫

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 これは、田善の最も初期の「銅版画」。寛政年間後期、田善50歳頃の小さな作品です。
 農夫や牛などが描かれていますが、西洋風で牧歌的な絵です。
 この絵にはお手本があり、田善は、オランダのアムステルダムで出版された『世界四大洲地図帳』の中のオランダ地図にある装飾部分を翻案して描いています。(下図参照)
 このオランダわたりの地図帳は、当時、松平定信が所蔵していた可能性がある。亜欧堂田善が、藩主・松平定信から「銅版画技術の修得」を命じられた時に「世界地図帳」を示された、と言われていますので、それが、この地図帳だったことが考えられます。

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133-6 のコピー.jpg 田善は、上部に「MASR」なるアルファベットを記していますが、これはオランダ語の「MARS」(沼)の誤記か。地図帳のどこかにあったものをここに持ってきたのかも知れない。

 田善が描いた絵は、構図の不安定さや線刻の粗さなど、技術的には未熟なところがあり、「銅版画」勉強中、初期の作品です。

 もうひとつ、田善初期の「銅版画」を紹介します。
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 この図の下の円形銅版画が亜欧堂田善の制作した「西洋古城図」。
 この絵の下敷きとなったのは、ベルギーで発行された「地誌」の挿絵にあったアントワープ近郊の二つの城館。田善は、このふたつを合成して円形の銅版画に仕立てました。

 これも銅版画技術習得時期の作品であり、単調で重々しい画面ですが、陰影感や立体感をつけるための努力のあとが感じられます。
 この円形銅版画は、鏡の裏面を利用して制作されました。田善はしばしば鏡の裏を用いて銅版画制作に使っています。

 松平定信から「銅版画技術の習得」を命じられた亜欧堂田善は、その後ろ盾によって、オランダ渡りのさまざまな西洋銅版画を見ることができました。

 下図の左は、ドイツで刊行された『諸国馬図』(全32図)の中の「トルコの馬」ですが、田善はこれをお手本に、鏡の裏を利用して右の「曳馬図」を制作しています。
 ドイツの銅版画家リーディング制作の原図では、微細な点描を巧みに用いて、馬の立体感を表現しています。

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 一方、亜欧堂田善の作品では、馬の胴体や人物の衣服に、曲線を幾重にも重ねて「陰影感」をつけるなど、リーディンガーの原画にはない独自の工夫が見られる。かなり技術が向上していることが分かります。

 次回は、一気に技術が向上した時期の亜欧堂田善の銅版画を紹介します。
(次号に続く)


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