SSブログ

多摩のむかし道と伝説の旅 №134 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

多摩のむかし道と伝説の旅(№30)
−⼆ヶ領⽤⽔⽔辺の道を⾏く−5
 
            原田環爾

[Ⅲ]宿河原⽤⽔の本流合流点から川崎堀へ 2
7-1 のコピー.jpg 円筒分水の周辺に社寺があるので立ち寄ることにする。平瀬川隧道出口の上の傍らに久地神社がある。鳥居をくぐって参道の石段を上がれば、ささやかな境内に本殿がある。また町田市域以外では珍しい地神塔も立っている。境内の由緒書には問い合わせ先を溝口神社としているので、溝口神社が管理しているものと思われる。神社の創立年代は不詳であるが、江戸時代の元禄の頃に久地の農民38戸によって祀られたのが始まりという。江戸時代は赤城社と称し、溝口神社の兄弟神として、毘沙門天や弁財天をお祭りしていたという。しかし明治の神仏分離令により、御神体は近隣の浄元寺に遷し、村内の伊勢宮と富士浅間社を合祀し、天照大神を主祭神に久地神社と改称したという。
7-2 のコピー.jpg 久地神社の傍らの坂道を上って行くと、久地神社の裏手に久地弁財天がある。境内には 石の鳥居と小祠、小池に架かる赤い橋があるが、立ち入り禁止になっているので境内に入ることはできない。先の久地神社の元の御神体である弁財天が祭られていたのであろうが、雑草も茂り十分管理されていない様子で哀れである。なお久地弁財天は、弁財天の他に、元禄年間(1688~1703)に久地に来住した比丘尼を祀っていた御堂ともいう。比丘尼は元上杉氏に仕えていた女性で、久地という地名は比丘尼が転訛したものとの説がある。境内の池は蛇神が棲むことから蛇神池と称し、干ばつでも水が絶えないことから「雨乞い弁天」とも呼ばれたそうだ。
7-3-1 のコピー.jpg 更に坂道を上って行くとその奥まった突き当りに久地不動尊がある。正式には成田山久地不動尊護尊寺と称す。元は東京浅草の新吉原にあったという。猫の額ほどの小さな境内であるがお堂は立派である。お堂の前には「六根清浄」と刻んだ石の倶利伽羅剣と不動明王が鎮座している。ちなみに倶利伽羅剣が盤石に突き刺さった姿は不動明王の化身とされるようだ。こんな面白い話がある。新吉原は昼と言わず夜といわず人が絶えない遊郭で、不動明王には喧噪で我慢できず、「私を静かな場所に移せ」と寺の者に告げた。これを聞いた寺は驚いて久地に移すことにした。ところが移転を前に関東大震災がおこり寺は全焼してしまった。しかし不動明王は自ら古井戸に飛び込み難を逃れたという。
 再び円筒分水に戻り、これより川崎堀に沿って東へ向かう。川崎堀に入って間もなく堀に架かる小橋がある。そ7-5 のコピー.jpg7-4 のコピー.jpgこ小橋で右手の路地に入ると、津田山山麓に浄元寺という日蓮宗の寺が佇んでいる。こじんまりした境内に本堂、日蓮上人像、瓦塔のほか、大きな大黒天の石像などがある。山号を秋興山と号す。創建年代は不詳であるが、開山は日應上人で、池上本門寺の末寺という。江戸時代までは毘沙門天と弁財天を祀る赤城社(現久地神社)の別当寺だったが、明治の神仏分離によって赤城社は久地神社に改称し、祭神であった毘沙門天と弁財天は浄元寺に写された。
 更に川崎堀に沿って進むと程なく激しく車両の行き交う厚木街道(国道246号線)に 出る。堀は一旦暗渠となるが、陸橋で街道を渡り溝口に入ると再び開渠となって姿を現す。水辺の道は両岸とも広く伸びやかである。法泉坊橋を過ぎると次は濱田橋の袂に来る。濱田という橋名は7-6 のコピー.jpg陶芸家の濱田庄司に由来するという。濱田庄司は明治27年溝口生まれ。英国人バーナードリーチと共に陶芸に目覚め、栃木県益子で作陶に入り、益子焼を芸術にまで高めた。昭和30年人間国宝に、昭和43年文化勲章を受章した。
 次いで西浦橋をやり過ごすと大石橋に出る。親柱にはコンクリート製ながら石灯籠を備えた風格のある橋になっている。それもそのはず、大石橋の通りは江戸時代に大山参詣で賑わった大山街道なのだ。しかもこの界隈は街道の宿場があった所で、橋の北詰には宿場を管理する問屋場があった。また大石橋から北へ50mも行った沿道左には大山街道の古びた石の道標が立ち、そこに「大山街道ふるさと館」がある。
7-7 のコピー.jpg 大山街道は、古代から存在した古い道筋を江戸時代に整備した脇往還の一つである。赤坂御門から青山、三軒茶屋、二子、溝口、長津田、厚木、伊勢原、松田惣領、矢倉沢関所に至る道で、更にその先足柄峠を越えて駿河方面へ通ずる道筋である。矢倉沢の関所を通ることから矢倉沢往還とも呼ばれた。宿場と同じ役割を担う継立村が17か所設けられていた。江戸時代の庶民にとっては大山詣の参詣道として大いに利用された。即ち大山詣は伊勢原で矢倉沢往還から分岐し阿夫利神社へと向かった。
 これより終着点溝の口駅へ向うが、その途中にある溝口神社に立ち寄ることにする。大 石橋から大山街道を南へ少し辿ると街道の右手に溝口の総鎮守溝口神社がある。溝口神社の創立年代は詳らかでない。江戸時代は毘沙門天と弁財天を祀り、神仏習合により溝口村の赤城大明神と称していた。明治維名称未設定 1 のコピー.jpg新後、神仏分離の法により溝口村の総鎮守として新たに伊勢神宮より天照大神を主祭神に勧請し溝口神社と改称した。安産、子育て、縁結び、家内安全のご利益があり、参拝客で賑わう神社である。
溝口神社を後に大山街道から離れると、すぐ目の前が終着点東急田園都市線溝の口駅であり、かつ南武線の武蔵溝ノ口駅でもある。(完)

nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。