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海の見る夢 №86 [雑木林の四季]

  海の見る夢
        -鳥の言葉―
                 澁澤京子

この間、you tubeで面白かったのが、トルコ人ユーチューバー、ルフィ・チネッツさんのタンザニアの狩猟民族ハッザ族を追ったドキュメンタリー。ハッザ族の人々の、その狩猟の対象とする鳥や動物の鳴き声の真似が動物や鳥にそっくりであること、また彼らの言葉には、舌を鳴らす音が多い事がとても興味深かった。そう、よく鳥を呼ぶときに人が舌で鳴らす「チッ、チッ」という音である。また、狩猟民族には時間の概念がなく未来のことを考えない、重要なのは「今・ここ」だけ。(時間の概念が出てくるのは農耕がはじまってからなんだろうか?)古代の狩猟民族の生活様式を保っている部族の言葉には、私たちの言葉のルーツというものが潜んでいるかもしれない。そして、ハッザ族の動物の鳴きまねの上手さは、かなり鳥に似ている。

我が家には今、ウロコインコ(一歳三か月メス)がいる。毎朝彼女は「チ―(ウンチ)」と教えるし、お腹がすいたときは「ゴアン(ゴハン)」、遊んでほしい時は「ルーちゃん(自分の名前)」を連呼。紅茶にお湯を注ぐ前に「ジュッ」とお湯を注ぐ音を再現し、ケージに入れられる時とか、あるいは叱られるようないたずらをした時に自分から「ダメ」と言う。野鳥の群れが囀っていると、一生懸命、窓の外に向かって「ルーちゃん」を連呼して自分をアピールしている姿を見るとなんだか可哀そうになるが・・you tubeで検索すると、「(ウンチ)出る」「(ウンチ)出た」と、現在形と過去形の使い分けのできるようなウロコインコや、色を識別し、さらに数を数えられ(8まで)、0の概念までわかるヨウムなど優秀な鳥をいくらでも見ることができるので、我が家のインコは鳥の中ではごく普通の知能だと思う。(アイリーン・ペパーバーク教授のヨウムのアレックス君は中でも飛び抜けた秀才)オウム返しというのは何も考えていないコミュニケーションのことを指すが、それはオウムにたいして失礼というものだ。別に人間が仕込んだわけではなく、鳥は人間が常に話かけていれば、臨機応変に言葉を使えるようになるのである。オウム返しの返答(記憶にございません)や、政治家による原稿棒読みスピーチ、社交辞令のやりとりなど、空虚な言葉のやり取りが多いのはむしろ人間のほうではないかという気さえしてくるが、いずれも本心を明かさないために編み出された形式化された会話なのだろう。

子どもの時から犬を飼っていたので、犬がとても賢いことはよく知っていたが、鳥がこんなに賢い生き物だとは知らなかった。鳥は賢いが誇り高く野性的で、決して従順に飼いならされない。野性的な縄文土器を好む岡本太郎が、カラスをペットとしていたのもわかるような気がする。うちのインコは時折、攻撃的になるので何度か手を噛まれて出血したが、それでも怒った後は100%私が悪かったと反省する事になる。(犬や小さな子供を怒った後はすぐに反省するのに、大人が相手だとなかなか反省できないのはなぜだろうか?)焼き鳥や鳥のスープが大好きな私だが、陽の当らない狭い鶏舎に押し込められ、大量生産、大量虐殺の悲惨な運命を生きる食肉用の鶏たちのことを考えると、鶏肉を以前のように積極的に食べられなくなってしまった。ちなみに、魚には痛覚がないというのはただの俗説で魚にも当然痛覚があるそうで、そう考えると魚の活け造りというのもかなり残酷な風習に思えてくる。「自然に優しい‥」というのは偽善でしかなく、自然に優しくないからこそ人類は生き延びてきたのではないだろうか?美味しい人工肉が早期に開発されることを切に願う。

ルソーは言語の基底には音楽、情感があると考えた。同じように鳥の囀り(歌)と人の言語の起源は似ているのではないかという仮説をもとに研究されている岡ノ谷一夫さんの本がとても面白い。鳥には「地鳴き」(お腹すいた、警戒、母鳥を呼ぶなど)と、鳥の歌である「囀り」があるそうで、囀りはオスがメスを惹きつけるために歌われるが、複雑な歌であればあるほど多くのメスを惹きつけ、単純な歌しか歌えないオスは、つがいの相手を見つけられずに一羽寂しく何処かに飛んで行ってしまうという・・「囀り」は、ヒナの時期から親鳥の歌をお手本に練習して習得するものだそうで、人が育てると我が家のインコのように歌を歌えなくなってしまうのかもしれない。You tubeでオカメインコが上手に歌う「となりのトトロ」をうちのインコに聴かせてみたら、かなり強い調子で「ダメ!」と拒否したのであわてて音を消した。うちのインコの気持ちを落ち着かせる音楽はフォーレ、クープランなどバロック音楽が主で、じっとして耳を傾けていたのは故・渡辺茂夫さんのバイオリンのCD。天才はすごい、鳥をも魅了してしまうと感心したのである。鳥にもそれぞれ人間のように音楽の好みというものがあるのかもしれない・・(余談だが、バロック時代のヨーロッパ宮廷人の衣装が、まるで孔雀などの美しい鳥のように過剰に装飾的だった事は興味深い。しかもこの時代は鳥を主題にした音楽が多い)

極楽鳥は美しい羽根を広げたダンスで自己アピールし、またニワシドリ、特にアズマヤドリは花などで装飾された個性的な巣でメスを引き寄せるが、鳥類では力の強いものというより、歌やダンス、装飾など美的センスに長けた鳥が生存競争に勝つ。人が自我を持つ代わりに彼らは美意識を発展させたのだ。人間の生存戦略も鳥のようにエレガントであればどんなに平和なことだろうか。ところで、うちのインコは時折「ダメ!」と言った後に自分で「ハッハハハ」と笑ったりするが、鳥には冗談のセンスも必要なのだろうか?(極楽鳥のダンス、アズマヤドリの巣作りはyou tubeで見ることができます)

岡ノ谷さんの分類によると

情動・・喜び、悲しみ、怒り、恐れ、派生情動・・嫌悪、驚き感情・・切なさ、妬み(自分が持っていないものを持っている人に対する感情)、羞恥、憎しみ(自分に不利益をもたらす相手に対する感情)、思いやり、などであり、情動が複雑になったものが感情であるという。鳥の地鳴きは情動から、鳥の囀りは人でいうと自己アピールにあたるだろうか。~『つながりの進化生物学』

※神経学者のアントニオ・ダマシオによると、ホメオスタシスが情動の根源にあり、ホメオスタシス→情動→感情・自我(意識)となるらしい。

そうすると、様々な社交会話なども、そのルーツは鳥の囀りのようなものと思ってもいいかもしれない。高級老人ホームでは、一部の富裕層老人の間で、かつての地位や肩書などの自慢話によるマウントの取り合いや、年取った女性同士の虚勢の張り合いなどが見られるらしいが、(そのルーツは縄張り争いと異性を惹き寄せるための自己アピール、つまり鳥の囀りと同じ)と考えればなるほど!と納得できるし、虚勢を張り合う老人たちもなんだか小鳥のような愛らしいものに見えてくるではないか。(・・そうでもないか)

さらに、鳥には時間の概念がなく、従って未来という概念もないが、人は死、あるいは将来に対する不安を持ち、人生のはかなさを嘆く。鳥のオスはメスの気を惹くために自己アピールするが自意識はなく、人は自意識を持つため世間体を気にしたり、自己憐憫など様々な感情を持つことになる。鳥は自他の比較をしないので他を妬んだりしないが、人は自他を比べて他人を妬み謗る・・鳥は言葉を持つ代わりに歌を歌う事になったが、人は言葉を持ったために文明を発展させ、宗教や国家を持つようになった。

人がサルと分かれたのはおよそ600万年前だが、鳥類が恐竜絶滅から逃れて生き延びたのは今から6550万年前。最近の恐竜図鑑を見ると、恐竜は鮮やかな色彩を持っているが、今も生存している大型鳥のヒクイドリの写真や映像を見ると、鳥類は紛れもなく恐竜の直系の子孫だということが一目でわかるほど色鮮やかで、その顔つきも精悍で恐竜に近い。

我が家のインコは手のひらに乗るサイズなので、一緒に遊ぶことができるが、その嘴も足の爪もとても鋭く、もしもインコが私と同じくらいのサイズ(160センチくらい)であったなら、別に悪気がなくとも、遊ぼうとじゃれかかってこられただけで、私は大怪我するか、もしくは致命傷の傷を負うだろうなと思いつつ、今日も指に止まった可憐なインコを楽しく眺めている。


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