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夕焼け小焼け №45 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

虚実皮膜・友は就職

           鈴木茂夫

 秋の学期がはじまった。
 細胞会議に顔は出さない。私が出なくても、出席を促す党員学生はいない。一般の新聞紙面から共産党の暴力というか武力闘争というか,騒がしい記事はなくなっている。党は軍事方針は変わったんだ。なぜだ。そんなことは分からない。そもそも党が武力闘争をはじめた理由が理解できないのだから、武装闘争を止めたという理由も分かるはずがない。  私は毎日教室に出るようになった。久しぶりの教室は懐かしかった。教室の中には,良くも悪くも知的な語らいがある。私はその枠組みからずいぶんとはみだしていたのだ。学校はいいなと思う。
 そんな私を、どうかしたのかと、いぶかしげに見る学友の支線があった。しかし、そんなことを気にはしていられない。
 私は卒業しよう。なんとしても卒業して、それなりの企業に就職しようとおもいさだめたのだ。そうしなければ,安定した生活は望めない。不安定な生活環境の中に生きるのは、とてもやりきれない。それは経済的なことだけにかぎらず、精神の動揺をもたらす。
 母は私が卒業してしかるべき業に就職する日が来ると信仰している。それが母の人生だ。母を裏切ってはならない。
 その卒業には、128単位を履修しなければならない。私は東洋哲学科に在籍していた2年間に90単位以上は学習している。だが転科したロシア文学科の必修科目が、ほとんど取れていない。その取得が最大の難関なのだ。ともかくやるしかない。それには授業への出席が欠かせない。
 平穏な時間が流れていく。
 授業の合間に、早稻田文庫でひとときを過ごす。都竹が笑いながら、
 「君もようやく、授業に出るようになったのか」
 「俺はきちんと卒業する。一年遅れだが5年で出る。ところで君は何か書いているのかい」「ま、その、構想を温めている」
 都竹はうろたえ気味に返事した。
 どうやら、私は落ちついた学生生活に立ち戻ったようだ。

 午後1時、昼の休み時間は終わった。文学部前にたむろしていた連中も、それぞれに正面の階段を上がって教室に向かう。気がつくと、私だけが取り残されていた。
 私もその後を追い、1階のこぢんまりした教室に入った。最後列に坐る。横にいた学生に尋ねると「文学概論」だという。私は1年生の時に、この講座の単位は取得していた。でももう一度きいてみよう。
 定刻を10分ほど遅れて、焦げ茶の大島紬に羽織袴姿の教員が、左手に風呂敷包みを抱えて静かに扉を開いた。英文科の本間久雄教授だ。明治42年の卒業生だから,66歳にはなっているはずだ。でも黒髪はつややかに整えられている。広い額と太い黒縁の眼鏡の奥に、穏やかな瞳が光っていた。
 「文芸批評の標準、または態度というものは,要するに人生派の批評と芸術派のひひょうとの是非論に他ならないのです。人生派の批評は、人類全体のための一種の理想を、その最後絶対の標準としています。これに対して芸術派は、批評家その人のその作品から受ける感受性を唯一の根拠としています。この派の批評は,できるだけ自己の理想を捨て、先入観を去り、虚心に作品を味わおうするのです。人生派の批評には『判断』または主張が重大要素となるのに対して,芸術派のそれは常に『鑑賞』と『解説』がちゅうしんとなっています」
 この人は、流暢な弁舌の人ではない。とつとつとして、いささかの東北訛りで話す。
 「文芸批評の標準を,鑑賞家ないし批評家の主観以外の外的な境地に求めるようなフォーマリズムの批評は、今日ではすでに跡を絶ったというべきでしょう。『人は皆自己を標準として万事を判断する。人は自己の外に何らの標準を持たない』と言ったアナトール・フランスの言葉は、真理であります。今日の文芸批評は,その意義も、その価値も、大部分はその批評家の『自己』にかかっていると見てよいのです」
 この人は「深く感動する能力」を文芸批評の柱だと言っている。それは同時に、文芸制作の根本であるとも主張しているのだ。気がつくと、,私は何度となくうなずいていた。私はこの先生の言う芸術派の視点に共感していた。授業に出て良かったと思う。
 私が物思いにふけっている間に、話は次のテーマに移っていた。
 「文芸における表現の問題として、虚実のことがあります。先生は『小説神髄』において、文学作品の制作に際し、虚構を排除して事実を重んじると模写主義を唱えられた。これに対し、森鴎外は『早稲田文学の没理想』と題する一文を発表。逍遙が,世界は実だけではなく、想に満ちていることを見過ごしていると反駁。二葉亭四迷も『小説総論』で、虚をとることこそ、大切であると反論したのです」
 本間教授は、ここでふと一息入れた。この人が姓を呼ばずに「先生」呼んだのは、他ならぬこの人の恩師・坪内逍遙のことだ。この人はその弟子として,早稲田文学の世話役を長く務めてきている。「先生」と口にすると、この人の脳裏を師の面影がよぎるのだろう。私は逍遙の風貌に接したことはない。文学史に現れる人物として理解している。しかし本間教授のふとした口ぶりから、私たちも逍遙の学灯につながっているのだと思う。
 「ここにいう虚といい,実といわれるものは何なのか。何はさておき、虚実のことについては、近松門左衛門を取り上げなければなりません。浄瑠璃における五句の評釈書『難波土産』(なにわのみやげ)は、近松の聞き書きとして、『芸といふものは実との皮膜の間にあるものなり』としています。世に『虚実皮膜の論』(きょじつひまくのろん)と言われるのがこの一文です。イギリスでは、こうした虚実の形象化をAesthetic processと言います」
 本間教授は、このくだりをしみじみとした口調で話された。私の勝手な想像だけど、きっと恩師逍遙も、そこを強調されたのだろう。
 私のささやかな体験から,、俳優における表現とは,肉体の制御なのだと思っている。では文学における表現とは何だろう。それは言葉の選択と語り口しかないはずだと思う。つまり文体だ。そしてその文体こそ、本人の生き様なのだろう。そして文学作品は、虚と実の統合なのだ。
 私は書きたいのだ。文学作品を書きたい。私が紡ぎ出し,織り上げる物語をだ。そこにはさまざまな文様を描き出そう。虚と実が渾然として輝くものにしたい。
 私の中に埋もれていた炎は、消えてはいなかった。素直にそれが嬉しかった。それは同時に,私が原稿用紙に字を書けないのは、文体の芯となる私自身があやふやであるということにつきる。お前はなになのだと、自分に問いかける。この問いに答えることができないで、私はたじろいでいる。しかし、私の創作する文学作品に,、私以外の誰も関与することはない。創作は自らに発し、自らに完結するのだ。
 僧侶である石堂さんも、自分を律するのは自分だけだと言っていた。そして神や佛という絶対を信じても、そこに信じる自分がいる。その自分がどれほど、小さく、取るに足りなくても、神や佛に向き合うのは、その自分以外には自分はいないと言った。まさにそうだと私も思う。私はいい加減な生き様をしていたと思う。
 本間教授は,、読み手の観点から,文学作品を分析し、主題を吟味し、構成を明らかにし、文体の特色をあげて、文学作品の鑑賞の方法を提示してくれた。それを聞きながら、私の中にはじけるものがあった。読み手の観点というのは、作品の外側から眺めてゆく。そうであるなら、書き手の観点というのは、まさに作品の内側から組み立ててゆくものに違いない。
もしかしたら、本間教授は、間接的に文学創作の方法を教えてくれたのかもしれない。

 10月はじめ、三宅久之(故人・毎日新聞・政治評論家)が弾んだ声で部室に現れた。恋人の柳平秀子さんと手をつないでいる。
 「やあおはよう。やったぞ、俺は」
 「三宅さん、どうしたの」
 「毎日新聞に合格したよ」
 その場にいた10数人が
 「ひぁあ、おめでとう三宅さん」
 「競争倍率が100倍を超えていたっていいますよ」
 入社試験のなにがよかったんですか」
 「答案を書く一般社会、英語はもちろんだけど、面接で点を稼いだと思う」
 「毎日新聞を狙ってたんですよね」
 「ありがとう。そうだ。毎日を本命にしていたからな」
 「三宅さんは社会部の事件記者するの」
 「俺はだ。政治部にいきたい」
 「秀子さんもよかったね」
 「俺は給料がもらえるから、世帯をもてる」
 この一言には重みがあった。就職した三宅は学生の枠組みにはいない。
 坂田純(故人)ちゃんがふらっと部室にやってきた、手にしていたカバンを机の上に置いた。授業に出ていたようだ。私は声をかけた。
 「純ちゃん、君は就職、どうなつてるの」
 純ちゃんは、いつもの笑顔を浮かべた。
 「うん、それか。なんとか決まったよ」
 「ほんと、よかったね。どこなの」
 「三越だよ」
 「えっ、三越って、百貨店の三越なの」
 「おめでとう。三越は慶應義塾の優秀な学生を採用すると言われているじゃない」
 「そうなんだよね。早稻田からの採用は俺一人みたい」
 純ちゃんは、ごく普通の話をしているようだが、三越が早稻田の学生を採用するのもあまりないことだ。
 「純ちゃんは試験を受けたの」
 「いや、三越に行ったら、採用内定と言われたんだ。紙の試験問題は関係ないよ」
 話をきいていた連中は、唖然として声も出ない。純ちゃんには、よほど力のある三井系の人が推薦しているに違いない。純ちゃんは家系のことなぞ口にしたことはない。でもいざとなると、その家系が威力を発揮したのだ。
 話の接ぎ穂がなく、就職の話はそれだけで終わった。

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