雑記帳2024-10-1 [代表・玲子の雑記帳]
2024-10-1
◆7月の三光院サロン『京都ルネサンス』は、与謝蕪村の登場でした。9月はその後半です。『知の木々舎』で再掲中の「郷愁の詩人与謝蕪村」は、明治の詩人、萩原朔太郎の手になるものです。朔太郎と同郷の斉藤陽一さんは、晩年京都におちつくまでは一所不在だった蕪村の後半の人生を、画家としての面から迫りました。
東北から近畿まで、一所不在の身で各地を巡ったあと、ようやく都に腰を:落ちつけ、蕪村は本格的に、師につくことなく、絵の修行を始めました。やがて、京都画壇での知名度も上り、文人画家としてしられるようになった蕪村は、明和8年、池大雅と「十便十宜図」の競作を行います。
国宝の「十便十宜図」を所有していたのがなんと川端康成と言うのも面白いではありませんか。
国宝の「十便十宜図」を所有していたのがなんと川端康成と言うのも面白いではありませんか。
大雅の絵には、おおらか、大胆、のびやか、おだやか、といった鑑賞がよせられています。飄逸にして天真爛漫、とらわれない大雅の気質があらわれているのでしょう。
これにたいして、蕪村はどうでしょう。
蕪村は「詩書画三絶」を意識して、自然への関心が強い作品になっています。
詩書画三絶とは中国文人の理想であり、詩、書、画の三つに優れていることを意味する中国がの伝統滴絵画観です。
これにたいして、蕪村はどうでしょう。
蕪村は「詩書画三絶」を意識して、自然への関心が強い作品になっています。
詩書画三絶とは中国文人の理想であり、詩、書、画の三つに優れていることを意味する中国がの伝統滴絵画観です。
絵には小路が描かれます。朔太郎は蕪村を「小路に郷愁を憶える詩人」と評しています。気を付けてみると蕪村の絵には小路が必ずでてきます。多くは曲がった行先が風景の中に消えてしまう。蕪村の、生まれながらに細やかな、感受性の強い資質なのかもしれません。
蕪村の絵は、俳味と詩情ただよう独自性を発揮しています。
「王子猷訪戴安道図」をみてみましょう。天明元年、蕪村66才のと気に描かれた一幅です。
「王子猷訪戴安道図」をみてみましょう。天明元年、蕪村66才のと気に描かれた一幅です。
雪の日、友人の家を訪ねた蕪村が、家にたどり着いたものの興が尽きたからと会わずに帰ったというエピソードがあります。自身の経験をそのまま絵にしたものです。風雅を愛する文人は、交わりの清さを良としました。月光に照らしだされた雪あかりの景色には日本人の四季に対する感性があらわれています。
蕪村は家には寄らなかったものの、その時の句をいくつも残しています。
君子の交わりを良しとしながら、実際は情愛の深い人だったのでしょう。
君子の交わりを良しとしながら、実際は情愛の深い人だったのでしょう。
「山野行楽図屏風」は六曲一双の重要文化財です。
右には三日月、秋の気配です。時刻は黄昏。左図に描かれているのは全部酔っ払いです。
人恋しさの気質があらわれているような画面です。
背景が省略された絵は人物だけが描かれ、もはや伝統的な山水画ではありません。
ここにも小路がでてきます。蕪村は小路好き。俳画一体となった境地です。
人恋しさの気質があらわれているような画面です。
背景が省略された絵は人物だけが描かれ、もはや伝統的な山水画ではありません。
ここにも小路がでてきます。蕪村は小路好き。俳画一体となった境地です。
「竹林家屋・柳陰騎路図屏風」重文。
右図は、線のグラデーションで霞にかすむ竹林が描かれ、さわやかで清々しい。隠棲した老人は蕪村の憧れでした。
左図には雨にけぶる柳の連なる長い道があります。無常を感じさせます。
背景の山さえ省略された、日本特有のやわらかい空間表現は、湿潤な日本の風景にぴったりです。
この絵にちなんで、蕪村はこんな句も残しています。
左図には雨にけぶる柳の連なる長い道があります。無常を感じさせます。
背景の山さえ省略された、日本特有のやわらかい空間表現は、湿潤な日本の風景にぴったりです。
この絵にちなんで、蕪村はこんな句も残しています。
春風や道長うして家遠し
ここにも郷愁の中の小路が登場し、近くに住みながら一度も足を踏み入れることのなかった故郷、毛馬村への思いがあふれるようです。
蕪村の最晩年の作品は、異色の三部作と言われます。
「富嶽列松図」
蕪村の心の中にある富士山を象徴的に描いています。
松林は筆の濃淡によって描き分けられています。
方や、何もない真っ白な富士山。最も簡潔な山です。
単純化された画面は俳句の世界と同じです。
松林は筆の濃淡によって描き分けられています。
方や、何もない真っ白な富士山。最も簡潔な山です。
単純化された画面は俳句の世界と同じです。
上図の3部作の画像のうち、右下の「峨眉露頂図」は、頂の部分だけを切り取った峻厳な峰々が描かれています。
李白の四言絶句「峨眉山月の詩(うた)」からとられました。三日月と相まって幻想味のある風景画です。
李白の四言絶句「峨眉山月の詩(うた)」からとられました。三日月と相まって幻想味のある風景画です。
「夜色楼台図」
京の雪景色です。
一見して中国の水墨画のように見えますが、舞台が京の都であることが異色と言われる所以です。蕪村にとっては京は生活の場でもありましたが、都をそんな視点で捉える画家はいなかったのです。
胡粉やぼかし、垂らし込みなどの技法をこらして、降り続く雪の質感を感じさせる。家々に使われてる赤絵の具は灯を暗示します。底冷えのする京都の雪景色中に営まれている人々のくらし・・・。
この絵に因んだ蕪村の句です。
一見して中国の水墨画のように見えますが、舞台が京の都であることが異色と言われる所以です。蕪村にとっては京は生活の場でもありましたが、都をそんな視点で捉える画家はいなかったのです。
胡粉やぼかし、垂らし込みなどの技法をこらして、降り続く雪の質感を感じさせる。家々に使われてる赤絵の具は灯を暗示します。底冷えのする京都の雪景色中に営まれている人々のくらし・・・。
この絵に因んだ蕪村の句です。
埋み火や わが隠れ家も 雪の中
三好達治の詩、「雪」をおぼえていますか。「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降り積む・・・」はこの絵を見て着眼したと言われています。
もう一つ、迫力ある双福の絵をご紹介しましょう。
もう一つ、迫力ある双福の絵をご紹介しましょう。
「鳶・鴉図」
蕪村の到着点といわれる大作です。
右図の、いどむような鳶に対し、左に描かれた二羽の鴉は、静かに降りしきる雪の中に肩をよせあって寒さに耐えているようです。
去来、芭蕉の句を発想源にしながら、それだけだはない。
鳶は茶色、薄い墨を重ねて羽毛の質感を出し、眼は黄色を付けて鋭い眼光をあらわしています。
鴉の羽には藍色を加えて、つややかさを出し、眼には赤い顔料がつかわれています。
降りしきる雪はあえて塗り残し、墨の滲みとともに重たい雪の質感を出しています。
蕪村は弟子にもやさしかったといわれていますが、暖かいまなざしが感じられる絵です。
去来、芭蕉の句を発想源にしながら、それだけだはない。
鳶は茶色、薄い墨を重ねて羽毛の質感を出し、眼は黄色を付けて鋭い眼光をあらわしています。
鴉の羽には藍色を加えて、つややかさを出し、眼には赤い顔料がつかわれています。
降りしきる雪はあえて塗り残し、墨の滲みとともに重たい雪の質感を出しています。
蕪村は弟子にもやさしかったといわれていますが、暖かいまなざしが感じられる絵です。
そして、元明2年、蕪村67才の時に描かれた「山水図屏風」は最後の力作となりました。
元明3年(1783年)、12月25日、蕪村は68才で生涯を閉じました。辞世の句です。
しら梅に 明くる夜ばかりと なりにけり
◆三光院の菊月のメニューには今年一番に採れた里いものふり柚子が加わりました。ご飯は黄菊のおばんに月見だんごの吸い物が付きました。
2024-09-29 06:45
nice!(1)
コメント(0)
コメント 0