多摩のむかし道と伝説の旅 №133 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
多摩のむかし道と伝説の旅(№30)
−⼆ヶ領⽤⽔⽔辺の道を⾏く−5
原田環爾
[Ⅲ]宿河原⽤⽔の本流合流点から川崎堀へ 1
本節ではJR南武線久地駅を出発し、⼆ヶ領⽤⽔に沿って東へ向かい久地円筒分⽔に⾄る。円筒分⽔とその界隈の 旧跡を訪ねた後、分⽔の⼀つである川崎堀に沿って進み終着点溝の⼝駅に⾄るものとする。
久地駅を出て府中街道を右に向かうと⼆ヶ領⽤⽔に架かる鷹匠橋の袂に来る。橋の名はこの近くに鷹匠が泊まる屋敷があったことによる。橋の傍らに⽴つ由緒書によれば、江⼾時代、川崎にも将軍家の御鷹場があり、この近くに鷹匠を⽌める名主の家があった。そこには常に御鷹部屋という特別の部屋が設けられて、鷹や鷹匠は⼤変⼿厚く
もてなされたという。
鷹匠橋からは⼆ヶ領⽤⽔の左岸の道を採る。緩やかに蛇⾏する⽔辺の道を進むと程なく前⽅右⼿にマンションを戴く丘が⽬に⼊るようになる。駅名にもなっている津⽥⼭とはあの丘を指すのであろう。その津⽥⼭が次第に迫ってくるとやがて堰前橋の袂に来る。堰前とはこの先に堰が造られていたことによる名称であろう。堰前橋からの左岸には久地さくら緑地と称する瀟洒な緑道が整備されている。緑道が終わると前⽅に⽤⽔を斜めに跨ぐ幅の広い久地橋が⾒えてくる。橋の⼿前の路傍に⼩さな庚申堂が⽴っている。そお堂の左に「久地の横⼟⼿」と記した由緒書が⽴っている。横⼟⼿とはあまり聞きなれない⾔葉である。説明版から江⼾時代に洪⽔時の⽔勢を弱める⽬的で、多摩川に対して直⾓に造られた⼟⼿を指すようだ。しかし⾒たところ広い道路が北から南へ向かって来ているだけでその痕跡は⾒当たらない。なお⼯事は約300m進んだ所で中断したという。
久地橋を後にして更に進む。橋の袂からは左岸に沿って「久地の⾥公園」という瀟洒な公園が伸びている。右岸は相変わらず津⽥⼭が⽤⽔近くまで迫っている。程なく⽤⽔沿いのフェンスにくっつくように1本の標⽯が⽴っている。標⽯には『⼆ヶ領⽤⽔「久地分量樋」跡』と刻まれている。江⼾時代にはここに分量樋があったとのことだが、⽤⽔を覗いても今は全くその痕跡は⾒当たらない。久地分量樋跡は久地で合流した⼆ヶ領⽤⽔の⽔を四つの幅に分け、各堀ごとの⽔量⽐を保つための施設で、江⼾時代中期に⽥中休愚(丘隅)によって造られた。明治43年には分量樋を⽊製から⽯材にかえる⼯事がなされている。しかし昭和16年、ここよりすぐ下流に久地円筒分⽔が完成したことでその役⽬を終了した。
因みに⽥中休愚は武州多摩郡平沢村の農⺠出⾝で、宝永2年(1704)東海道川崎宿の名主と本陣・問屋役となり疲弊した川崎宿復興に功績を上げた。その後⺠⽣分野の研鑽により、享保の改⾰で町奉⾏⼤岡越前守忠相や⼋代将軍義宗の⽬に留まり、享保8年(1723)幕府から⼆ヶ領⽤⽔の普請を任された。享保10年(1725)深刻化する各村の⽔争いを解消するため分量樋を設置して問題を解決したおのことである。
久地分量樋から200mも進むと堰が現れる。その堰の右側に取⽔⼝があるが、それが久地円筒分⽔の取⽔⼝だ。⼀⽅堰を越えた本流は滝のようになって下の南北⽅向に流れる新平瀬川に流れ込んでいる。ところで新平瀬川は元は津⽥⼭の南を流れる平瀬川であったがしばしば氾濫するので、それを回避するため流路変更し津⽥⼭に隧道を造り、それに⽔を通して素早く多摩川へ流す新平瀬川を開削したのだ。但し⼆ヶ領⽤⽔の流路と交差するのでこれを避けるため川底を深く掘り、円筒分⽔への分⽔後の余⽔を滝のように新広瀬川に落として合流させ多摩川に流
している。
続いて円筒分⽔へ向かう。合流点から新平瀬川のすぐ下流の新平瀬橋を渡り対岸の道を辿って再び合流点へ向かうと左⼿⼟⼿の下に特異なドーナツ構造をした久地円筒分⽔が姿を現す。取⽔された⽔が新平瀬川の下をサイフォンの原理でくぐり円筒分⽔に送られ、4つの⽔路が分⽔されているのだ。円筒分⽔の周りは⼩公園が取り巻きじっくり眺めることができるようになっている。由緒書によれば、久地円筒分⽔は平賀栄治が設計し⼿がけたもので、昭和16年完成した。多摩川から取⽔した⼆ヶ領⽤⽔を平瀬川の下をトンネル⽔路で導き、中央の円筒形の噴出⼝からサイフォンの原理で流⽔を噴き上げさせて、正確で公平な分⽔⽐で四⽅向(川崎堀、根⽅堀、久地堀、六ヵ村堀)へ泉のように⽤⽔を吹きこぼす装置により、灌漑⽤⽔の分⽔量を巡って渇⽔期に多発していた⽔争いが⼀挙に解決した。(つづく)
2024-09-29 06:32
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