西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」 №136 [文芸美術の森]
シリーズ:江戸・洋風画の先駆者たち
~司馬江漢と亜欧堂田善~
第5回
美術ジャーナリスト 斎藤陽一
「司馬(しば)江漢(こうかん)」 その5
≪司馬江漢の長崎旅行≫
天明8年(1788年)4月、司馬江漢42歳の時、妻子を江戸に残し、従者1人を伴って、かねてからの念願だった長崎に向けて旅立ちました。翌年4月に江戸に戻るまでの1年に及ぶ長旅でした。途中の路銀は、田舎の人たちに自作の「洋風銅版画」を見せたり、即興の絵を売ったりして賄いました。
この旅の途中、江漢は、さまざまなスケッチとメモを残し、それをもとに、のちに『江漢西遊日記』(全6冊。文化12年)を刊行しています。(下図参照)
左図は、天竜川上流の寒村に至った時、村の老婆から「米なんか1粒も無く、ヒエやアワを食べている」と聞いて、深く同情したというエピソードを描く。
右図は、平戸と生月島(いきつきしま)に滞在した時、捕鯨を目撃して大興奮、捕らえられた鯨の背中に乗る自分と従者を描いている。
その時の感動を、のちに、このような臨場感あふれる油彩画に仕立てています。捕鯨をした時には、江漢も舟に乗って見物したらしい。(下図)
波立つ海を進む漁船、潮を噴き上げる巨大な鯨、なかなか緊迫感があります。
≪油彩風景画の制作≫
長崎への旅行を体験し、各地の風景に触発されたのか、司馬江漢は「風景画家」としての自覚を持つようになりました。
江漢は、各地の寺社に、自分が描いた「油彩による風景画」を奉納し、人々の眼に触れさせようとします。自分の油彩画が寺社に掛けられれば、多くの視線を引きつけることが出来るから、効果的な宣伝になるという意図もあったでしょう。
下図の絵は、そのひとつ。
元は、江戸・芝の愛宕神社への「奉納画」でしたが、その後、二曲一隻の屏風に仕立て直されて、現在は神戸市立博物館の所蔵となっています。
前景右には二人の漁師、中景には江の島、遠景に富士山を望む七里ヶ浜の風景を描いています。実景では、江の島の右側に富士山が見えるはずですが、江漢は、絵画的に視覚効果のある構図として、江の島の左奥に富士山を配して描いた。
このような、油彩で描かれた奥行きと立体感のある風景画を神社で見上げた人々は、その現実感ある自然描写に驚嘆したことでしょう。
この絵の右端に、縦に描かれた文字に注目してください。
「西洋画士 東都 江漢司馬峻 描写」
その下に、アルファベットで
「S.Kookan No.18」
と書かれている。
江漢は高らかに「西洋画士」と宣言し、下には、ほとんどの江戸っ子には読めないアルファベットで自分の名前を記しています。いかにも自負心の強い江漢らしい趣向ですね。
もう1点、司馬江漢の油彩による「風景画」を紹介します。
上図は、駿河国の薩?峠(さったとうげ)から眺めた、富士山と駿河湾の海浜が織りなす雄大な景観を描いています。
江漢は、好んで富士山を取り入れた風景を描きましたが、その中でも、完成度の高い油彩画です。
日本人にとって、富士山は特別な霊山であり、古来、沢山の富士図が描かれてきましたが、「写実的に伝えるのが絵画の役割」との信念を持つに至った司馬江漢は、それまでにない空気感ある空間把握と光あふれる自然描写によって、画期的な「富士図」を創り出しました。
次回は、晩年の司馬江漢が熱中した「究理学」にもとづく絵画制作について紹介します。
(次号に続く)
2024-09-14 08:08
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