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浅草風土記 №34 [文芸美術の森]

相模屋の路次・浅倉屋の路次 1

       作家・俳人  久保田万太郎
       *
 広小路から公園に入るみちが二つある。
 一つは相模庭の路次。
 一つは浅倉屋の路次。
       *
 その相模屋の路次、十四五年まえまでは、さびしい、色の槌めたような路次だった。
 入ると、すぐ、左っ側に、おもてに粗い格子戸を入れた左官屋があった。その隣に喜久本というごく堅気な待合があった。反対の側には、和倉の名によって呼ばれる湯屋があり、隣に煙草屋を兼ねた貸本屋があった。
 そこで、一段、みちが低くなった。
 あとは、両側とも、屋根の低い長屋つづき、縫箔屋だの、仕立屋だの、床屋だの、道具巌だの、駄菓子屋だの、炭屋だの、米屋だの、あんまり口数をきかない、世帯じみた人たちばかりが、何のたのしみもなさそうに住んでいた。
 すこし離れて、出はずれの、角に、鯛煎餅という名代の煎餅屋があった。――そこを曲ると限のまえに、柿いろや、水いろの、水野好美さんへ、小島文衛さんへ、境若狭君へ、そうした常盤座の役者たちへ来た職が立っていた。
 それがどうだろう。
 左官屋のあとが鮨屋になった。貸本屋のあとも鮨屋になった。そうして待合のあとは小
料理屋になった。
 以下、縫箔屋、仕立屋、道具屋、駄菓子屋、炭屋、米屋。――そのおのおのが鮨屋になり、汁粉星になり、小料理屋になり、支那料理屋になった。- 夜、暖簾のかげ、硝子戸のうしろに、あかるい、熟れたような燈火を忍ばせる店舗ばかりが並んだ。
 むかしながらに残っているのは、和倉と、出はずれに近い床屋とがあるばかりである。
――嘗て、わたしが、田原町に住んでいた時分、散歩に出ては、いつもその床屋のまえを通った。そうして、その、見世の隅に、五十がらみの支那人の耳掃除をしているのをつねに見た。
 なぜか、わたしに、その支那人のことが忘れられなかった。四五年して、「雪」という戯曲を書いたとき、わたしはその茶の服を着たすがたを舞台のうえにみ出したいと思った。
――すなわち、わたしは、陳なにがしという支那料理屋をそこへ書きこんだ。
 半月ばかりまえ、久しぶりでそこを通ったとき、仕事をつづけているのをゆくりなく発見した。
 わたしは涙ぐましさを感じた。
 鯛煎餅のあとに出来たのが日本館である。
        *
 その浅倉屋の路次、十四五年まえまでは、さびしい、補綴をしたような路次だった。
 道幅がせまく、しばらくは、両側に、浅倉屋の台所ロと尾張屋という蕎麦屋の台所口とがつづき、その尽きたところに、右には同じく浅倉屋の土蔵、左には女髪結のうちがあった。――その女髪結のうちの前に灰汁桶(あくおけ)の置かれてあったことを不思議に覚えている。
 土蔵の隣に、間口の広い、がさつな格子の倣った平家があった。そこには出羽作という浅草でのばくちうちが住んでいた。――三下(さんした)が、始終、格子を拭いたり、水口で洗いものをしたりしていた。
 道をへだてて井戸があり、その井戸のそばに、屋根を茅で葺いた庵室のようなものがあった。露の宿という言葉を思わせる草深さがあった。――横山町のある大きな小間物屋の隠居が余生をそこに送っていた。
 その隠居、小柄な、尼のような感じを持ったおじいさんだった。同時に病癖もちの、我鳴ることの好きな、気難かしいじいさんだった。
 出羽作の隣は西川勝之輔という桶の師匠だった。おもての格子から覗くと、限尻の下った、禿げ上った額の円右にさも似た勝之輔師匠が、色の黒い、角張った蕨の、烏猫を思わせる細君に地を弾かせ、「女太夫」だの、「山がえり」だの、「おそめ」だのを十三の子供たちにいつも夢中になって教えていた。
 その隣は、浅倉産の親類の、吉田さんとどこかへ勤める人の控家だった。門のあり、塀のあるうちだった。その反対の側に長家つづきの側面があった。
 それがどうだろう。
 女髪結も、出羽作も、庵室も、吉田さんも、何もかも、或は鮨屋となり、或は小料理屋となり、或は西洋料理屋となった。――むかしながらに残るものは勝之輔師匠のうちだけ。――だが、それも、或る西洋料理屋の二階にわずかにのこっているのである。
 吉田さんのうちは、このころ朝倉屋の角に出て、薬舗をはじめた。

『浅草風土記』 中公文庫

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