郷愁の詩人与謝蕪村 №37 [ことだま五七五]
春風馬堤曲 3
詩人 萩原朔太郎
こうした同じ「心の家郷」を、芭蕉は空間の所在に求め、雲水(うんすい)の如く生涯を漂泊の旅に暮した。しかるにその同じ家郷を、ひとえに時間の所在に求めて、追懐のノスタルジアに耽(ふけ)った蕪村は、いつも冬の炬燵(こたつ)にもぐり込んで、炭団(たどん)法師と共に丸くなって暮していた。芭蕉は「漂泊の詩人」であったが、蕪村は「炉辺の詩人」であり、殆ほとんど生涯を家に籠こもって、炬燵に転寝をして暮していた。時に野外や近郊を歩くときでも、彼はなお目前の自然の中に、転寝の夢に見る夢を感じて
詩人 萩原朔太郎
こうした同じ「心の家郷」を、芭蕉は空間の所在に求め、雲水(うんすい)の如く生涯を漂泊の旅に暮した。しかるにその同じ家郷を、ひとえに時間の所在に求めて、追懐のノスタルジアに耽(ふけ)った蕪村は、いつも冬の炬燵(こたつ)にもぐり込んで、炭団(たどん)法師と共に丸くなって暮していた。芭蕉は「漂泊の詩人」であったが、蕪村は「炉辺の詩人」であり、殆ほとんど生涯を家に籠こもって、炬燵に転寝をして暮していた。時に野外や近郊を歩くときでも、彼はなお目前の自然の中に、転寝の夢に見る夢を感じて
古寺(ふるでら)やほうろく捨(す)てる芹(せり)の中
と、冬日だまりに散らばう廃跡の侘しさを咏よむのであった。「侘び」とは蕪村の詩境において、寂しく霜枯(しもが)れた心の底に、楽しく暖かい炉辺の家郷――母の懐袍(ふところ)――を恋いするこの詩情であった。それ故にまた蕪村は、冬の蕭条(しょうじょう)たる木枯こがらしの中で、孤独に寄り合う村落を見て
と、冬日だまりに散らばう廃跡の侘しさを咏よむのであった。「侘び」とは蕪村の詩境において、寂しく霜枯(しもが)れた心の底に、楽しく暖かい炉辺の家郷――母の懐袍(ふところ)――を恋いするこの詩情であった。それ故にまた蕪村は、冬の蕭条(しょうじょう)たる木枯こがらしの中で、孤独に寄り合う村落を見て
木枯や何に世渡る家五軒
と、霜枯れた風致(ふうち)の中に、同じ人生の暖かさ懐かしさを、沁々(しみじみ)いとしんで咏むのであった。この同じ自然観が、芭蕉にあっては大いに異なり、
と、霜枯れた風致(ふうち)の中に、同じ人生の暖かさ懐かしさを、沁々(しみじみ)いとしんで咏むのであった。この同じ自然観が、芭蕉にあっては大いに異なり、
鷹たかひとつ見つけて嬉(うれ)しいらこ岬(ざき) 芭蕉
と言うような、全く魂の凍死を思わすような、荒寥(こうりょう)たる漂泊旅愁のリリックとなって歌われている。反対に蕪村は、どんな蕭条とした自然を見ても、そこに或る魂の家郷を感じ、オルゴールの鳴る人生の懐かしさと、火の燃える炉辺の暖かさとを感じている。この意味において蕪村の詩は、たしかに「人情的」とも言えるのである。
蕪村の性愛生活については、一ひとつも史に伝(つた)わったところがない。しかしおそらく彼の場合は、恋愛においてもその詩と同じく、愛人の姿に母の追懐をイメージして、支那の古い音楽が聞えて来る、「琴心挑美人(きんしんもてびじん)にいどむ」の郷愁から
と言うような、全く魂の凍死を思わすような、荒寥(こうりょう)たる漂泊旅愁のリリックとなって歌われている。反対に蕪村は、どんな蕭条とした自然を見ても、そこに或る魂の家郷を感じ、オルゴールの鳴る人生の懐かしさと、火の燃える炉辺の暖かさとを感じている。この意味において蕪村の詩は、たしかに「人情的」とも言えるのである。
蕪村の性愛生活については、一ひとつも史に伝(つた)わったところがない。しかしおそらく彼の場合は、恋愛においてもその詩と同じく、愛人の姿に母の追懐をイメージして、支那の古い音楽が聞えて来る、「琴心挑美人(きんしんもてびじん)にいどむ」の郷愁から
妹(いも)が垣根三味線草(さみせんぐさ)の花咲きぬ
の淡く悲しい恋をリリカルしたにちがいない。春風馬堤曲に歌われた藪入やぶいりの少女は、こうした蕪村の詩情において、蒲公英たんぽぽの咲く野景と共に、永く残ったイメージの恋人であったろう。彼の詩の結句に引いた太祇(たいぎ)の句。
の淡く悲しい恋をリリカルしたにちがいない。春風馬堤曲に歌われた藪入やぶいりの少女は、こうした蕪村の詩情において、蒲公英たんぽぽの咲く野景と共に、永く残ったイメージの恋人であったろう。彼の詩の結句に引いた太祇(たいぎ)の句。
藪入りの寝るやひとりの親の側(そば) 太祇
には、蕪村自身のうら侘しい主観を通して、少女に対する無限の愛撫あいぶと切憐せつりんの情が語られている。
蕪村は自(みずか)ら号して「夜半亭(やはんてい)蕪村」と言い、その詩句を「夜半楽(やはんらく)」と称した。まことに彼の抒情詩のリリシズムは、古き楽器の夜半に奏するセレネードで、侘しいオルゴールの音色に似ている。彼は芭蕉よりもなお悲しく、夜半に独り起きてさめざめと歔欷きょきするような詩人であった。
には、蕪村自身のうら侘しい主観を通して、少女に対する無限の愛撫あいぶと切憐せつりんの情が語られている。
蕪村は自(みずか)ら号して「夜半亭(やはんてい)蕪村」と言い、その詩句を「夜半楽(やはんらく)」と称した。まことに彼の抒情詩のリリシズムは、古き楽器の夜半に奏するセレネードで、侘しいオルゴールの音色に似ている。彼は芭蕉よりもなお悲しく、夜半に独り起きてさめざめと歔欷きょきするような詩人であった。
白梅(しらうめ)に明くる夜ばかりとなりにけり
を辞世として、縹渺(ひょうびょう)よるべなき郷愁の悲哀の中に、その生涯の詩を終った蕪村。人生の家郷を慈母の懐袍(ふところ)に求めた蕪村は、今もなお我らの心に永く生きて、その侘しい夜半楽の旋律を聴かせてくれる。抒情詩人の中での、まことの懐かしい抒情詩人の蕪村であった。
を辞世として、縹渺(ひょうびょう)よるべなき郷愁の悲哀の中に、その生涯の詩を終った蕪村。人生の家郷を慈母の懐袍(ふところ)に求めた蕪村は、今もなお我らの心に永く生きて、その侘しい夜半楽の旋律を聴かせてくれる。抒情詩人の中での、まことの懐かしい抒情詩人の蕪村であった。
附記――蕪村と芭蕉の相違は、両者の書体が最もよく表象している。芭蕉の書体が雄健で闊達かったつであるに反して、蕪村の文字は飄逸ひょういつで寒そうにかじかんでいる。それは「炬燵こたつの詩人」であり、「炉辺ろへんの詩人」であったところの、俳人蕪村の風貌を表象している。
2024-09-14 08:05
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