多摩のむかし道と伝説の旅(№30)
−⼆ヶ領⽤⽔⽔辺の道を⾏く−4
原田環爾
[Ⅱ]宿河原⽤⽔⽔辺の道 2

綱下げ松と松寿弁財天には古くから様々な伝説が伝えられている。⼀つは昔、豊⾂秀吉が⼩⽥原北条⽒を攻めた折、神宮寺に向かった兵がこの松に綱を結び付けて丘下に降りたという。また別の伝説では多摩川の洪⽔に由来している。すなわち⽂政5年(1822)多摩川が氾濫した折、宿河原の村⼈が夜中に多摩丘陵へ避難しようとして難儀してした。その時丘陵の松に光が射して⼀

本の⽩い布がするすると降りてきた。村⼈はこれを命綱に丘に這い上がり命が助かった。翌⽇村⼈が松の所へ⾏くと綱はなく松の下に⽩蛇がいたという。⽩蛇は弁財天でもあり、弁天様が助けてくれたということになった。またこんな伝説もある。ある夜、宿河原村の紋右衛⾨さんの家の⼾を叩くものがあるので⼾を開けたが誰もいない。床につくとまた⼾をたたく。出てみるとやはり誰もいない。気味の悪いことと思っていたら蚕室から⽕が出ており、危うく消し⽌めて⼤事は⾄らなかった。翌朝、蚕室に⾏ってみると天井の横に⽩蛇が死んでいた。紋右衛⾨さんは松寿弁財天様が知らせてくれたと思い⽩蛇を⼿厚く供養したという。そのほか様々なご利益がうわさとなって広がり、霊験あらたかということで、天保年間には江⼾の町⺠の⾏楽地として⼤変賑わい、多摩川両岸には84軒もの茶店が軒を並べ、弁財天への道を描いた絵図が⼟産物として売られたという。そのうち「⽥仕事もせずに松詣で」と⾔われるほど⼈々が押し寄せるようになり、ついには代官がかんかんに怒り禁⽌のお達しが出たという。なお綱下げ松は天保年

間に枯れ、明治20年頃までは残っていたという。現在の松は何度か植え替えられたものという。
北村橋に戻って再び⽤⽔沿いを進む。ゆったりと左に曲がりながら200mも進めば宿河原橋に来る。⽊製の橋でなかなか趣がある。橋の袂に「宿河原堤の桜」と刻んだ⽯碑が⽴ っている。その名の通り⽔辺を⾒れば相変わらず⾒事な桜並⽊となっている。この桜は昭和33年に地元の有志によって植えられた。今では宿河原の取⼊⼝から約3km、400本余りの桜並⽊となっている。。因みに宿河原という地名は多摩川の河原に宿市がたったことから⽣まれたものという。幕末から明治にかけて多摩川の筏流しが盛んに⾏われた頃は筏師の定宿があったという。橋の南詰の⽅向に⽬をやると神社が⾒える。旧宿河原村の鎮守宿河原⼋幡宮だ。なお宿河原橋の道を北に100mも進めば南武線の宿河原駅がある。
宿河原橋の次は緑橋、次いで仲乃橋に来る。仲乃橋の辺りは⽔辺は広く⼩公園の様になっている。その⼀⾓に宿河原堤桜保存会による桜記念碑、それに平成17年に国⼟交通⼤⾂から「⼿づくり郷⼟⼤賞」を受賞した記念碑が⽴っている。続いて⽔辺はゆったりS字状にカーブし⼋幡下橋に来る。橋そのものが道に合わせてカーブしてい

る。⼋幡下橋を過ぎると伝説を残す松寿弁財天すぐ左岸に川崎市⽴緑化センターが、右岸には緑化センター⻄園が現れる。両施設は宿河原⽤⽔に架かる「緑の吊橋」で結ばれている。左岸のセンターは業務⽤の施設と⾒え多数の温室に様々な草⽊が育成されている。⼀⽅右岸の⻄園は憩いの公園で芝⽣広場や⽔⾞、池、萩のトンネルなどがあり、住宅街のオアシスとして家族連れで賑わっている。なお緑の吊橋に平⾏してレトロな⽔道橋が架かっている。五ヶ村堀といい、この地点で宿河原⽤⽔と⽴体交差し堰⽅⾯の⽥畑を潤したという。
緑化センターを後にすると煉⽡造りの宿之島橋の袂に来る。橋の袂に

は4体の地蔵がお堂に祀られている。上宿地蔵尊と呼ばれている。更に進んで⾼橋、中村橋を過ぎると本堂の屋根の上に⾊鮮やかな三重塔を乗せた⾵変わりな寺院が⾒えてくる。新明国上教会という ⼤正年間に創建された新興宗教のようである。続いて稲荷橋の袂に来る。橋の南詰に稲荷神社があることからこの名がある。程なく前⽅に宿河原⽤⽔の上を跨ぐように架かる⾞道が⽬に⾶び込む。東名⾼速道路だ。
そのガード⼿前の沿道左に地蔵堂と憤怒の形相をした明王らしき像を彫った供養塔が⽴っている。更に⽔辺の⽅には⽯盤碑が1基ひっそり⽴っている。碑⾯にはなんと「徒然草碑」と記されている。なんでこんな所に徒然草が出てくるのか不思議に思ったが、碑⽂を読んで宿河原という⼟地が徒然草に記述と関係があることが分かって納得した。
この徒然草碑は宿河原の地名を記した最古の書物が徒然草であることを記念して

この碑がある。すなわち徒然草第115段には「宿河原という所にて・・・」という書き出しで物語が記されている。物語の内容は宿河原に「ぼろぼろ」と称する無宿渡世⼈が⼤勢集まって、死んだら地獄に落ちないように念仏を唱えていた。そこへ外から師匠の敵「いろをし房」を探す「しら梵字」というぼろぼろがやってきた。そしてその敵がこの中にいることが分かり河原で仇討をすることになった。しかしついには互いに刺し合って共倒れてしまったというもの。宿河原の下綱会館のあった所にはかつて阿弥陀堂があったといい、会館には阿弥陀如来が安置され、念仏供養が⾏われているという。
東名⾼速道のガードをくぐり、続いて府中街道のバイパスのガードくぐると古びた⽯橋「宿河原橋」の袂に出る。宿河原駅近くにあった橋と同名である。橋を渡り右岸に⼊る。右岸を進み出会い橋という⼈道橋を左にやりすごすと、程なく⼆ヶ領⽤⽔本流との合流点に⾄る。宿河原⽤⽔の終点だ。合流点から下流を望むとすぐ先

に南武線の鉄橋が⽤⽔を跨いでいるのが望⾒できる。これより久地駅に向かう。少し戻って先の出会い橋を渡り、⽤⽔沿いを進み南武線の鉄橋に併設された細い新明橋に⼊る。橋から⼆ヶ領⽤⽔の上流⽅向に⽬をやれば先の合流点を望⾒することができる。橋を渡り終え府中街道に出る。そぐ傍らの踏切を越えるとそこが久地駅前になっている。(つづく)
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