浅草風土記 №33 [文芸美術の森]
あやめ団子 2
作家。俳人 久保田万太郎
作家。俳人 久保田万太郎
電気館の隣には大きな小屋があった。名前は忘れた。ずっと古くは、竹沢藤次の独楽の見世ものがそこにかかっていた。中ごろには、しばらく、梅坊主がそこを根城にしていたが、その後、岩でこが、代って、そこで興行をつづけた。
わたしは、梅坊主は好きだったが、岩でこは嫌いだった。岩でこには梅坊主の洗練がなかった。
話は違うが、そのころ、カナリ長くつづいていた「新声」という雑誌が潰れ、暫くして隆文館から同じ名の雑誌が出た。体裁も、内容も、前の「新声」とは気もちの大分ちがうものだったが、忘れもしない、その、三月だか、四月だかに出た、今でいえば特別倍大号のようなものに、「梅坊主と岩でこ」(たしかそういう題だったと覚えている)という堂々たる論文が出ていた。匿名で、その説くところは、梅坊主、岩でこ、両者の関係から、貪婪(どんらん)飽くなき岩でこの、ひそかにその爪牙を磨き、梅坊主を陥れ、ついにこれを追って自分がそのあとに直るに到ったのを憎み、そうして、わが梅坊主のため、万斛(ばんこく)の泪をそそぐのにあった。
わたしは、再読、三読した。どこの、誰が、こんな情理を尽した、歯切のいい、気のきいたものを書いたのだろうと、子供ごころに、わたしは、感嘆これを久しうした。――「吐舌一番、その舌の赤かりしを知るのみ」とあったそのなかの一句が、なぜか、わたしに、その後いつまでも忘れることが出来ずに残った。
爾来、十幾年、縁あって岡村柿紅と識り、いろいろ無駄をいい合うようになってから、話がたまたまかっぽれのことに及ぶと、かれ、金丸を説き、国松を論じ、まくし立てて、わたしをして口を噤(つぐ)むのやむなきに至らしめた。すなわち、わたしは酬ゆるにその「梅坊主と岩でこ」を以てした。――今更のように、わたしは、それを書いた主の、どこの、誰とも分らないことを残念に思った。
と、かれ、柿紅、
「ああ、あれは俺が書いたんだよ」
莞爾(かんじ)としていった。
その小屋の真向いに「珍世界」があった。ほうぼうの国の、珍しいもの、不思議なものたとえば、みいらだの、蟻の塔だの、素性も分らないさかなの剥製だの、そういったようなものがガランとした室のなかに万遍なく並べられてあった。土俗的、伝説的なものが多かった。根っから面白くないものだった。ただ、入口に置かれてあった猿の人形。――赤い洋服を着、右に向き、左に向きながら、断えず太鼓を叩いていたあの猿の人形が、今でも、わたしの思い出のなかで寂しく太鼓を叩いている。
珍世界のとなり、今の富士館のところに、加藤鬼月一座の改良剣舞がかかっていた。
改良剣舞といっても、必ずしも、うしろ鉢巻の、袴の股立を高くとり、鼻のあたまにばかり濃く白粉をつけた男たちの、月琴によって、日清談判をばかり破裂させた訳ではないそれはほんの附合せにすぎず、じつは、短銃強盗清水定吉だの、服部中尉(だったか大尉だったか)の太沽(タークー)砲台占領だのの芝居をやるのだった。あるときは、あの川上の演った「武士的教育」をもじったようなものをさえ演ったこともあった。それは立廻りと七五の台詞(せりふ)とで出来上っている初期の書生芝居だった。短銃と、合口(あいくち)と、捕縄と、肉稲梓と、白い腹巻とが、そこで演るすべての芝居の要素だった。
学校で(わたしの学校は浅草学校だった)わたしの机のそばに公園の写真屋の息子がいた。これが加藤鬼月を大の贔屓(ひいき)だった。機会さえあればそこに入浸っていた。わたしは、かれによって、「花のさかりの向島、人も散っちゃあヒッソリと、鳥もねぐらの枕橋、ズドンと二発短銃の、音はたしかに辻強盗」という官員五郎蔵の台詞を教えられた。
この写真屋の息子、姓は鴨下、名は中雄、晃湖と号して、今では画を描いている。
剣舞の隣、いまの三友館のところは、開進館という勧工場だった。その前っ角、今の千代田館のところには、屋根の低い、小さな写真屋があった。その写真屋のまえに、七十がらみの、あたまに小さな馨をのせた爺さんが、始終、あやめ団子を焼いて売っていた。――わたしはその爺さんの有数の顧客だった。
あやめ団子というもの、いまではどこの縁日へ行ってもみ当らなくなった。
(大正九年)
『浅草風土記』 中公文庫
『浅草風土記』 中公文庫
2024-08-28 07:26
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