多摩のむかし道と伝説の旅 №131 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
多摩のむかし道と伝説の旅(№30)
−⼆ヶ領⽤⽔⽔辺の道を⾏く−4
原田環爾
[Ⅱ]宿河原⽤⽔⽔辺の道 宿河原⽤⽔とは初代⼆ヶ領⽤⽔が完成してから20年後の寛永6年(1629)、次第に深刻化した末端の⽔量不⾜を解消するため、関東郡代伊奈半⼗郎忠治が⼿代筧助兵衛に命じて中野島取⽔⼝の下流3kmの宿河原の地に新たな取⽔⼝を設け、久地駅付近まで開削して⼆ヶ領⽤⽔本流に合流させて出来た⼈⼯の⽔路である。
ここではJR南武線登⼾駅を出発し多摩川堤に出て宿河原の取⼊⼝に向かう。そこから⾱駄天を祀る天神社宿河原⽤⽔に沿って⽔辺の道を辿り、本流との合流点を⾒届けた後、終着点JR南武線の久地駅に⾄るものとする。
登⼾駅北側の多摩川⼝を出て⾞道を渡り、⼩⽥急線沿い進んでガードをくぐり多摩川堤に出る。そこはかつての登⼾の渡しがあった所だ。下流⽅向に⽬をやれば400〜500m先に⼆ヶ領宿河原堰が遠望できる。堰堤の⼿前にある⼆ヶ領⽤⽔の宿河原取⼊⼝を⽬指して堤の上を進むと、程なく河原へ斜めに降りて⾏く細い坂道が現れる。坂道を採って河原を進むと間もなく取⼊⼝に到着する。宿河原取⼊⼝は上流の中野島取⼊⼝よりもやや⼤きい印象がする。台⾵直後のためか取⽔⼝の⽔⾯は流⽊で覆われている。
江⼾時代の宿河原取⽔⼝は多摩川の⽔を⾃然流⼊で取⽔し、⽔量の少ない時は⼀時的に蛇籠を並べて対応していた。やがて流域の⽥畑が増え⽔量不⾜をきたすようになり、更に砂利の採取で川床が低下し取⽔が困難になってきた。そこで⼤正の初期、蛇籠を何段も重ねて堰を造ったのが⼆ヶ領宿河原堰の始まりだ。しかし蛇籠は洪⽔で流され復旧も⼤変なことから昭和24年コンクリートの固定堰に改造された。しかし昭和49年台⾵16号で多摩川が氾濫し⺠家19⼾が流されるという狛江⽔害が発⽣した。原因のひとつが⽔圧を逃せない固定堰にあるとして訴訟さえ起った。そこで平成11年、⽔⾨を調節できる可動堰に改造されて今⽇に⾄っているという。
ここより⽤⽔路の右岸に沿って進むことにする。取⼊⼝から100mも進んだ所に⽔⾨の橋がある。橋の向こうの取⼊⼝対岸にまわれば「⼆ヶ領せせらぎ館」がある。館内には宿河原堰の全貌を確認できる模型があり、また多摩川に⽣息する淡⽔⿂をまるで⼩さな⽔族館の様に展⽰しているので楽しめる。なお建屋の裏に回れば実際の宿河原堰を眼前で⾒ることが出来る。
せせらぎ館の東側の堤のすぐ下に⼩さな社が⾒えるのは船島稲荷だ。この地を開拓した祖先の⽒神という。別名沓稲荷とも呼ばれていたそうだ。もとは現在の狛江市に道祖神猿⽥彦を祀ったことに始まるという。⼟地を開拓した祖先が、治⽔興農の⽒神として祀ったものという。別名「沓稲荷」とも呼ぶ。これにはこんな⾔い伝えがある。昔、殿様が鷹狩に訪れたとき、愛⾺が病に倒れ、⼟地の伯楽(⾺医)が⼿当てして治した。信條深い伯楽は精進のため、京都の伏⾒稲荷に参詣して分霊し、⾺学の発展と⾺の健脚を祈願して⾺の草鞋を奉納した。このことから⾜を怪我した際はこの草鞋を持ち帰ると早く治るとされ、その御礼に新しい草鞋を掛けて帰るのだという。その他百⽇咳にも効くといわれ、草鞋を持ち帰ると病が治り、草鞋を倍にして返したという。
元の⽔⾨の橋の袂に戻り、堤防下の多摩沿線道路を横切ると⾚レンガ造りの⾈島⼈道橋の袂に出る。ここから宿河原⽤⽔⽔辺の道を辿る。右岸左岸どちらでもよいがとりあえず右岸を採る。⽔辺は親⽔⼯事が施され、両岸には桜が植樹され、また川⾯のすれすれに遊歩道が設けられているので気持ちよく散策することができる。次の船島橋で⾞道を渡ると、親⽔遊歩道のある左岸に回る。蛇⾏する川に従い⽔辺を辿ると程なく南武線と交差する。ガード下も遊歩道が続くが⾼さが低いので腰をかがめて通⾏する必要がある。「頭上注意」だ。川筋は⼤きく左へカーブし程なく北村橋に来る。なお北村橋を南へ200mばかり進んだ集落の中に埋もれるように常照寺という寺がある。宿河原の南側に横たわる⻑尾丘陵の峰にある松寿弁財天と関係がある寺なので⽴ち寄ることにする。真⾔宗豊⼭派の寺で⼭号を雁三⼭と号す。明応6年(1497)賢智和尚による開⼭と⾔われるが詳細は不明。当寺には安政5年(1858)に制作された宿河原網下ヶ松と松寿弁財天の霊験を図⽰した紙本墨画着⾊・松寿弁天図を所蔵している。毎年旧正⽉前後に弁財天護摩供養が⾏われているという。(つづく)
2024-08-28 07:06
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