海の見る夢 №83 [雑木林の四季]
海の見る夢
―コルトレーンと長崎の夏の空ー
澁澤京子
・・悲しみと虚無しかないのだとしたら、僕は悲しみのほうを取ろう。
『野生の棕櫚』W・フォークナー
―コルトレーンと長崎の夏の空ー
澁澤京子
・・悲しみと虚無しかないのだとしたら、僕は悲しみのほうを取ろう。
『野生の棕櫚』W・フォークナー
パワハラで自殺者を二名も出しておきながら、なおも開き直る県知事がいるのかと思っていたら、日本以外のG7の「政治的」圧力にもめげず、毅然としてイスラエルの平和式典への出席を拒否した長崎市長(そのため英、米、仏、伊、カナダ、オーストラリアがイスラエルに続いて出席拒否))、また、式典にイスラエルを招待し(国際法違反して強国が弱小国を残酷に踏みにじる事を強く非難し、核廃絶を訴え)、堂々とスピーチした広島県知事。顔色伺いをしない政治家が日本にいることはとてもうれしい。今の状況の中で、ロシア、ベラルーシを招待しないのであればイスラエルも、というのはごく自然な流れだろう。お二人とも、政治家というよりも被爆の過去を持つ市民として、一人の人間としての公正さと倫理感覚で判断されたんじゃないだろうか。
国家道徳というものは個人の道徳に比べるとレベルが低くてロクなものじゃない、国家というのは強盗やペテンや詐欺ばかり行うと言った漱石の言葉は実に正しくて、アメリカ人としてとか、イスラエル人としてとか、日本人としてではなく、まず一人の人間としてどう感じるか?どう思うか?が大切なのであって、その個人の倫理感覚が問われる事が最も重要なことだと思う。例えば,イスラエルのパレスチナ攻撃に反対する良心的なユダヤ人とアメリカ人はとても多いし、最近のイギリスの反移民感情を煽って暴動を起こしたのは極右の人々で、多くの良心的なイギリス人がデモによって反対した。戦争が破壊するのは、国家という抽象ではなく、むしろ個人個人の平穏な日常生活であり、国籍とか民族は全く関係なく、誰もが享受する家でのくつろぎの時間、家族や友人との語らいを一瞬にして破壊してしまうのが戦争なのである。そういう意味では国家や宗教に関係なく、平和式典に参加できるのは心からの哀悼の意を持つ、二度と戦争をしたくない人だけだろう。
・・戦乱の中で飢餓に見舞われている人びとをお守りください。支援物資が妨げられずに確実に届き、命をつなぐ糧となりますように。
この間、私が通っている教会(カトリック)の共同祈願で皆で唱えた祈り。「飢餓」と、特に「支援物資が妨げられず」の言葉で、どこの戦乱を指しているのかがわかるが、今のイスラエル政府への批判に対する無言の圧力には危機感を覚える。
・・最後の空が終わったとき、鳥はどこで飛べばよいのか。
~『地が我らを圧迫して』マフムード・ダルウィーシュ
・・最後の空が終わったとき、鳥はどこで飛べばよいのか。
~『地が我らを圧迫して』マフムード・ダルウィーシュ
パレスチナの詩人ダルウィーシュのこの詩は、広島と長崎の原爆を連想させるし、また、「 ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ わたしをかえせ わたしにつながる人間をかえせ・・」という峠三吉さんの有名な原爆詩は、今のパレスチナの状況を思わせる。Xで、家族全員を殺され「自分も死にたい」と語っていたパレスチナの少女、肩にオカメインコを止まらせて「早く停戦してほしい」と瓦礫を背景に語っていた少年、爆撃によって死んだペットのインコを泣きながら植木鉢に埋めていた小さな少女、野良犬に貴重なペットボトルの水を分け与えていた青年・・みんな、まだ生きているだろうか?
「悲しみ」には国境などなく、万国共通の普遍性を持つのである。広島・長崎だろうと、ウクライナだろうと、ガザだろうと、シリアだろうと、ミャンマーだろうと、スーダンであろうと、平和な日常と家族をある日突然破壊された人の悲しみと苦しみは同じものなのだ。イスラエルで家族を拉致された人も、ガザで家族全員を失った子供も、その悲しみは同じなのだ。
かつてパリの新聞社でテロのため12名が殺され、そうした言論弾圧に対して「わたしはシャルリ」運動が起こったが、今回のパレスチナで殺されたジャーナリストは160名以上。ジャーナリスト以外では、多くの作家や詩人も故意に標的にされ殺されている。(瓦礫に埋もれた行方不明者を考えるともっと多いだろうし、今のパレスチナではカウントする人すらもはや生きているのかわからない状況)「表現の自由」というものに民族とか国の違いは全くない。
・・世界の指導者たちが自画自賛している間に、私の親族は瓦礫の中で朽ちてゆく。
~『ガザ日記』
~『ガザ日記』
アーティフ・アブー・サイフの『ガザ日記』を読む。去年の10月7日以後のイスラエルの攻撃から早くも一週間で水も食料も不足していることがわかる。もともと水不足だったガザだからなおさらなのだろう(壁を隔てたイスラエルにはプールのある家も珍しくない)毎朝起きると、近所の人たちと力を合わせて瓦礫に埋もれた人の救助に向かう。道路には血糊とおもちゃのかけらや割れた瓶が飛び散っていて、遺骸はビニール袋に収納する。子供たちは自分が死んだときに誰だかわかるよう、手足にマーカーで自分の名前、家族の携帯番号を書く。著者が爆撃によって両足と片腕を失った親戚の少女を見舞いに行くと、早く致死量の薬を注射してほしいと頼まれる。鎮痛剤も鎮静剤もなく、感染症で熱も下がらず耐えられないほどの痛みに苦しんでいるのだ。病院だろうと学校だろうと容赦なく爆撃される。麻酔なしの手術が行われ、Xにも映像が流れていたが、病院の床に直接、所狭しと寝かされた負傷者と遺体。電気が足りず、冷蔵庫が使えないので食料の保存ができない。毎朝、パンを買うための行列ができるが、狙ったように行列した人々は爆撃され殺される、キャンプ地にあるトイレは長蛇の列で三時間待ち・・飽食の日本で、クーラーの効いた部屋でこの本を読んでいることに罪悪感すら覚える。ジャーナリストである著者は去年(2023)の12月、無事にエジプトに脱出できるが、その後のパレスチナではさらにひどい殺戮が続いたまま深刻な飢餓状況になったことを知っているだけに、読み進めるのがとても辛い。
と、ここまで書いていたらパレスチナの学校が爆撃され100人以上の死者。祈りに来ていた人々が犠牲になった(2024年8月10日)。イスラエル政府はまたしても「ハマスの拠点」と正当化している。遺体の多くはバラバラで判別がつかず、ビニール袋に収納され大人一人70キロとか子供18キロなどと重さで分けられているという・・
東北大震災の後、ガザの子供たちが日本の震災の復興を願って凧をあげていたが、自分たちも同じような瓦礫の街に住んでいるから日本のことを心配したのだという。ノーム・チョムスキーは大学生の時に広島原爆投下を知り、その日、同級生が浮かれているのを見ているうちに気分が悪くなり、すぐに大学を出て街をさまよった。一週間ほど誰とも口を利けなくなるくらい気持ちが落ち込んだという。そうした共感能力は、人間としてとても大切なものじゃないだろうか?
・・不運な人々に与えられうる最も残酷な愚弄は、彼らの苦難を軽視することだと思われる。
~『道徳感情論』アダム・スミス
~『道徳感情論』アダム・スミス
シモーヌ・ヴェイユは、確か(うろ覚えだが)不幸な人間は二重に苦しまなければならないと言うような事を述べた。自身の被った不幸と、不幸ゆえに人々から忌み嫌われ見捨てられるという二重の苦しみ。『ガザ日記』で明らかにされるのは、毎日「死」と隣り合わせの状況で必死で生きるガザの人々の(世界から見捨てられている)という孤立感と絶望である。世の中の出来事を新聞やラジオで知る、といった大昔ではなく、今はテレビもインターネットもあり、幸か不幸か、私たちは遠い世界の出来事をほぼ同時に、リアルに知ることができる時代を生きているというのに。
アダム・スミスは、道徳のベースにあるのは人の共感能力だと考えた。他人の苦しみを共に苦しみ、他人の喜びを共に喜べるような、そうした共感能力を人が持つ限り、自己愛と自己利益の追求があっても社会道徳と公正さは保たれると考えたアダム・スミス。あくまで人の善性を信じるオポチュニストのように見えるが、長い目で考えれば、世の中に自己愛と利己心だけで他者に対する共感能力が欠如している人びとばかりでは、いずれ人類は自分で自分の首を絞めることになるのではないだろうか。
「ピース・オン・アース」は、ジョン・コルトレーンが長崎、広島のために捧げた曲。1966年に来日したコルトレーンは、過密スケジュールの合間を縫って長崎で黙祷を捧げた。黙祷の後は長い間沈黙し、長崎の夏の青空を見上げていたという。(コルトレーンはその翌年に急死)
2024-08-13 17:16
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