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夕焼け小焼け №42 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

新宿の記憶 その2

            鈴木茂夫

歌舞伎町二丁目
西寄りに東京都保健医療公社大久保病院・東京都健康プラザハイジア、東側にはラブホテル街が広がり、区役所通り付近はクラブ、ホストクラブなどが多数あるが、一丁目と違い表立って性風俗店は見当たらず、職安通りと明治通り沿いはオフィスビルやマンションが立ち並ぶ。

 酒を飲まない私はいくつかの飲食店を訪れるだけで、奥深いこの街をよく知らない。

 ゴールデン街は花園神社の西向かいにある。終戦直後、進駐軍が新宿駅の東側にあった闇市を旧三光町に移転させたのだという。当時は荒れ果てた空き地だったとか。それがこの場所だ。
 街には東西に6本、南北に1本の通りがある。十平方メートルから十五平方メートルの狭い木造二階建ての店が約二百八十店密集している。ゴールデン街の西橋を都電が走る。
 それぞれの店は売春を認める赤線の許可をとってはいない。だがここを訪れた客は、店の女と交わることができた。それは非合法だ。つまり青線なのだ。(1957年以降、売春防止法の施行により青線の時代は終わっている)

 昭和25年(1950年)春、まだ青線の時代だ。ロマンと言う名の一軒を訪ねた。カウンターの中に女性が二人いた。四十代の女性が笑顔を見せた。ママというか女将なのだろう。二十代女性は流しで洗い物をしている。
 椅子は6席、客の男が一人いた。焼酎のコップを前にしている。少し酔っている。着慣れた感じのジャケットを羽織っている。落ちてくる長い髪を右手で掻き上げた。芥川龍之介の顔写真で見たことがあるようだ。テーブルの上に原稿用紙らしいのを置いている。まさに文士といえばいい。男は私たちに向き合った。
 「君たち早稻田」
 「そうです」
 「雰囲気で言えば文学部だろ」
 「そうです」
 「俺も文学部だ。旧制だけどな」
 「英文科でしょ」
 「そうだ。よく分かるなあ」
 「雰囲気で言えば。そうですよ」
 「なんか良い出会いだな。俺がおごるよ。何か頼んで。」
 われわれは遠慮せずにサイダーを頼んだ。
 「君たちは何か書いてるの」
 「いや」
 「書く気はあるの」
 「その時がきたらですね。先輩は何を書いているんですか」
 「いいぞ。よく聞いてくれた。小説を書いている」
 「どんな小説ですか」
 「俺は近代日本文学の伝統にしたがい、私小説を書いている」
 「あのう、私小説って何を書くんですか」
 「私小説は、文字通り私を書くんだ」
 「私の何を書くんですか」
 「私の体験。私の思い。私を取り巻く環境。私に関すること」
 「私以外のことは書かないんですか。自伝小説ですよね」
 「君は何を聞いているの。そのことを分かっているの」
 「私が分からないから聞いているだけです」
 「君は初対面の僕に,遠慮なしにズバズバ聞いてくる」
 「私小説は日本だけのモノですか。ヨーロッパの私は日本の私と違うのですか」
 「君は私小説の問題点をついている。書く対象を私だけにしぼってしまうと、孤独で孤立している修行者のようになってしまう。ほどほどにして文章の描写に打ち込む。私小説をめぐって多くの評論があるのは、そこの兼ね合いをどうするかだ」
 男は上着のポケットから本を一冊取り出した。
 「これは評論家・小林秀雄の有名な『私小説論』だ。私小説を批判している」

 文学を軽べつすることと文学を一生の仕事と覚悟する事とは紙一重だ。そしてこの間  の事情を悟るにはもはや他人の言葉は一文の足しにもならぬ。古来若年者で大小説を  書いた人は一人もいない。詩人は若くして一流の詩がかけた人がいる、だが彼等はそ  の詩のため当然不幸にしてその身を殺した。

 「小林は私小説に良い作品があることを認めながらも,日本文学に現れる私を批判する」
 女将があくびをかみ殺して笑った。
 「あんた,初めての人だと必ずそこを開くのね」
 男は照れた。前髪をかきあげる。
 「先輩の作品を読ませてください」
 「実を言うと,書くんだが,形のある作品はできていない」
 「私小説に徹すると行き詰まるんですか」
 「ところで君たちは童貞なのかい」
 男の思いがけない問いかけにうろたえた。
 「はっ」
 「女を知らないで小説は書けないよ」
 「はあ」
 「女と寝てはじめて人生が見える。」
 それは含みのある言葉に聞こえた。だが女と寝た男はすべて人生が見えているのか。
会話が途絶えた。
 そのとき、
 大ぶりの封筒を持った中年の男が顔をみせ、店の端に腰掛けた。                     
 「酒はあとにするよ」
 女将がうなずいた。
 「由希子さん、それじゃ」
 由希子さんと呼ばれた若い女は男と二人で狭い階段を上っていった。
 私たちの会話は途切れた。私はサイダーで喉を湿した。
 二階から鈍い音が聞こえてきた。柱がちいさくきしんだ。安普請のだ。その音の意味を知って、みんな黙っていた。女将がコップ酒を口にした。
 柱のきしみが消えると、すこし間をおいて二人が下りてきた。なにごともなかった顔つきだ。ほっとして私たちは話しはじめた。

2023年現在、今も営業しているゴールデン街で個性的な店を。

かおりノ夢ハ夜ヒラク
藤圭子の代表曲「圭子の夢は夜ひらく」に因んだ店名。ママはかおりさん、明るい笑顔、ハスキーな声が売り。軽い話で客を惹きつける。

奥亭
四十数年前からの老舗。壁にはコンサート、ライブ、演劇のポスターが貼り出され、すり減っている。若者に古きよき時代を思い出させる。

呑家 しの
40年以上営む。昔話に花が咲く。裏表のない明るい優しい性格。心と心を素直に開いて客と対等に呑む。席料なし。お通し500円。飲み物500円から。

はるぼら屋
狭い店。目の前の鉄板で豚ロースやなどを炒める。いつも満席か満席に近い。牛すじ煮込みが評判。美味しいです。

月に吠える
萩原朔太郎の詩集を店名にしている。日本一、敷居の低い文壇バー。本好きや作家・ライター、出版業界などの人々が集まる。席料800円、飲み物700円から。

駄菓子バー・吉田商店
駄菓子をつまみにして、幼い頃に親しんだモノを見つければ。隣に座った人との思わぬ昔話に花が咲くとか。マスターは日替わり。席料500円、飲み物一律700円


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