浅草風土記 №32 [文芸美術の森]
あやめ団子 1
作家 久保田万太郎
作家 久保田万太郎
この間、常盤座で 「夜明前」を演ったとき、小山内〔薫〕さんの代りに稽古を見に行き、久しぶりに、わたしは、あすこの楽屋のなかをみる機会を得た。
わたしの「たびがらす」という小説を読んで下すった方はごぞんじだろう。――わたしは、十三四の時分、うちへ出入の下廻りの役者に連れられて、よくここの楽屋へ遊びに来たのである。
その時分は、水野好美を大将に、小島文衛、本多小一郎、境若狭、岡本貞次郎、亀井鉄骨、西川秀之助、高松琴哉、そういった「新演劇」時代の……という意味は「新派」以前の傍流的古強者が大勢いた。外には、服部谷川だの、越後源次郎だのいう人気ものがいた。
朝、九時に芝居をはじめた。――序まくのあく前に、越後源次郎が、粗い飛白の着物に袴を穿き、幕のそとに出て、愛橋のあるあいさつをした。――どっちかといえば、体の小いさ、顔の輪廓のまァるい、眉の下り気味な、始終にこにこしている役者だった。
小島(後に児島)文衛は 「夏小袖」のおそめを演って紅葉を驚嘆させた役者。―― 肥り肉(ふとりじし)の、ポッテリした、そのくせ、蓬莱な色気のある女形だった。後に、常盤座を出て、本郷座に入り、「風流線」のおつまだの「村雨松風」の髪結だのであてた。――河合武雄と二人、おのおの、その、違った味によって、長い間、対立していた。
本多小一郎もまた、「夏小袖」の佐助を持役にしていた役者。――常盤座へ来るまえにはしばらく伊井一座にいた。敵役(かたきやく)にも好ければ、実体(じったい)なものにもよく、時としては三枚目にもよかった。その達者さ、重宝さにおいて、品は落ちるが、また、臭くもあったが、今の村田正雄のような役者であったように思われる。
境若狭も達者な役者だった。立役にも向けば敵役にも向いた。そうかと思えば「夏小袖」で五郎右衛門をするような役者だった。だが、その達者さのうえに、本多とは離れて、また、落ちつきがなく、板帯(こんてい)がなかった。泥臭く、鍛帳(どんちょう)臭かった。――それがまた公園に人気のある所以でもあった。
岡本貞次郎は、うすあばたのある、三尺ものの巧い役者だった。――この役者、後に、奨励会というものが解散してから、暫くして、そのころはやりかけた活動写真のなかに入り、実物応用というものをはじめた。わたしの記憶にもしあやまりがないならば、役者にして、活動小屋に関係を持った、それがそもそもの人間だった。
亀井鉄骨は老役(ふけやく)を大専にした。相手を、始終、ねめつけるように据えた両方の眠が、かれを、敵役にもした。――皺枯れた、浪花ぶし語りのような調子の持主だった。
西川秀之助は河合型の女形だった。色っぽい、sensualな感じを、顔のうちに、体のうちに持っていた。だが、河合君のことにすると、河合君の持っているような聡明さがなく、その代りに、河合君よりも、もっと、頬廃した、ぐうたらな味を持っていた。み方によると、それが、寂しい味にもなった。
高松琴哉は、やさがたの、鈴のような眼を持った女形だった。内輪な、控え目な、つねに敵役によって苦しめられる不仕合なお嬢さんや若い細君がその役所だった。――強いていえば、木下と村田式部とを抱きまぜ、それに花柳の味を加えたような役者だった。
だが、小島も、本多も、境も、岡本も、西川も、高松も、そうして、越後も、皆、今は、故人になった。――生きているのは、わずかに、ただ、水野と亀井鉄骨との二人にすぎない。
そのころ、常盤座の近所は、公園のなかでも、さびしい、色彩に乏しいところになっていた。小屋のみてくれからいっても、看板をあげ、鼠木戸を閉てた外には、(もう一つ、小屋の左っ手に、水野好美以下、十五六枚の庵看板の並べられた外には)人の眼を惹くこれという飾りといってなかった。――小屋の右っ手(今の東京倶楽部のところ)には、喜の字屋という、たった一軒の、座つきの茶屋があった。色の裡めた花暖簾を軒に、申訳だけに見世をあけているという感じだった。
小星のまえにはパノラマがあった。門のなかに、庭が広く、植込があり、池があり、芝生があった。――建物は白く塗られてあったと覚えている。
常盤座と、横町を一つ隔てたとなりに、電気館の小さな建物があった。まだ、活動写真にならない時分で、無線電信だの、Ⅹ光線だの、避雷針の見本だの、その他、電気に関するいろいろの実験をみせる見世ものだった。――おもてに、顎なしの、平ったい顔をした木戸番がいて、それが尤もらしい口上をいい、しきりに客を呼びこんでいた。わたしたちは、よく、その真似をした。
『浅草風土記』 中公文庫
『浅草風土記』 中公文庫
2024-08-13 17:22
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