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郷愁の詩人与謝蕪村 №35 [ことだま五七五]

春風馬堤曲(しゅんぷうばていのきょく) 1

           詩人  萩原朔太郎

○やぶ入(いり)や浪花(なにわ)を出(いで)て長柄川(ながらがわ)
○春風や堤(つつみ)長うして家遠し
○堤ヨリ下(おり)テ摘芳草(ほうそうをつめば) 荊与棘塞路(けいときょくみちをふさぐ)
  荊棘何妬情(けいきょくなんのとじょうぞ) 裂裙且傷股(くんをさきかつこをきずつく)
○渓流石(いし)点々(てんてん) 蹈石撮香芹(いしをふみてこうきんをとる)
  多謝(たしゃ)す水上石(すいじょうのいし) 教儂不沾裙(われをしてくんをぬらさざらしむるを)
○一軒の茶見世(ちゃみせ)の柳(やなぎ)老(おい)にけり
○茶店の老婆子(ろうばし)儂(われ)を見て慇懃(いんぎん)に
  無恙(むよう)を賀(が)し且(かつ)儂が春衣(しゅんい)を美(ほ)ム
○店中有二客(にきゃくあり) 能解江南語(よくこうなんのごをかいす)
  酒銭擲三緡(さんびんをなげうち) 迎我譲榻去(われをむかえとうをゆずりてさる)
○古駅三両家猫児(こえきさんりょうけびょうじ) 妻を呼び妻来らず
○呼雛籬外鶏(ひなをよぶりがいのとり) 籬外草満地(りがいのくさちにみつ)
  雛飛欲越籬(ひなとびてりをこえんとほっし) 籬高堕三四(りたかくしておつることさんし)
○春艸路三叉中(しゅんそうのみちさんさなか)に捷径(しょうけい)あり我を迎ふ
○たんぽぽ花咲(さけ)り三々五々五々は黄に
 三々は白し記得(きとく)す去年この道よりす
○憐(あわれ)みとる蒲公(たんぽぽ)茎(くき)短(みじか)くして乳を浥(あま)せり
○昔々しきりに思ふ慈母の恩
  慈母の懐袍(かいほう)別に春あり
○春あり成長して浪花(なにわ)にあり
  梅は白し浪花橋畔財主(きょうはんざいしゅ)の家
  春情まなび得たり浪花風流(なにわぶり)
○郷(ごう)を辞し弟(てい)に負(そむ)きて身(み)三春(さんしゅん)
  本(もと)を忘れ末を取る接木(つぎき)の梅
○故郷春深し行々(ゆきゆき)て又行々(ゆきゆく)
  楊柳長堤(ようりゅうちょうてい)道漸(ようやく)くだれり
○矯首(きょうしゅ)はじめて見る故国の家
  黄昏(こうこん)戸に倚(よ)る白髪の人
  弟(てい)を抱き我を待つ 春又春
○君見ずや故人太祇(たいぎ)が句
  藪入(やぶいり)の寝るやひとりの親の側

 この長詩は、十数首の俳句と数聯すうれんの漢詩と、その中間をつなぐ連句とで構成されてる。こういう形式は全く珍しく、蕪村の独創になるものである。単に同一主題の俳句を並べた「連作」という形式や、一つの主題からヴァリエーション的に発展して行く「連句」という形式やは、普通に昔からあったけれども、俳句と漢詩とを接続して、一篇の新体詩を作ったのは、全く蕪村の新しい創案である。蕪村はこの外ほかにも、

君あしたに去りぬ夕べの心千々ちぢに
何ぞはるかなる
君を思ふて岡の辺べに行ゆきつ遊ぶ
岡の辺なんぞかく悲しき

 という句で始まる十数行の長詩を作ってる。蕪村はこれを「俳体詩」と名づけているが、まさしくこれらは明治の新体詩の先駆である。明治の新体詩というものも、藤村時代の成果を結ぶまでに長い時日がかかっており、初期のものは全く幼稚で見るに耐えないものであった。百数十年も昔に作った蕪村の詩が、明治の新体詩より遥はるかに芸術的に高級で、かつ西欧詩に近くハイカラであったということは、日本の文化史上における一皮肉と言わねばならない。単にこの種の詩ばかりでなく、前に評釈した俳句の中にも、詩想上において西欧詩と類縁があり、明治の新体詩より遥かに近代的のものがあったのは、おそらく蕪村が万葉集を深く学んで、上古奈良朝時代の大陸的文化――それは唐を経てギリシアから伝来したものと言われてる――を、本質の精神上に捉とらえていたためであろう。とにかく徳川時代における蕪村の新しさは、驚異的に類例のないものであった。あの戯作者的、床屋俳句的卑俗趣味の流行した江戸末期に、蕪村が時潮の外に孤立させられ、殆ほとんど理解者を持ち得なかったことは、むしろ当然すぎるほど当然だった。
  さてこの「春風馬堤曲」は、蕪村がその耆老きろうを故園に訪とうの日、長柄川ながらがわの堤で藪入やぶいりの娘と道連れになり、女に代って情を述べた詩である。陽春の日に、蒲公英たんぽぽの咲く長堤を逍遥しょうようするのは、蕪村の最も好んだリリシズムであるが、しかも都会の旗亭きていにつとめて、春情学び得たる浪花風流なにわぶりの少女と道連れになり、喃々戯語なんなんけごを交かわして春光の下を歩いた記憶は、蕪村にとって永く忘れられないイメージだったろう。
  この詩のモチーヴとなってるものは、漢詩のいわゆる楊柳杏花村的ようりゅうきょうかそんてきな南国情緒であるけれども、本質には別の人間的なリリシズムが歌われているのである。即ち蕪村は、その藪入りの娘に代って、彼の魂の哀切なノスタルジア、亡き母の懐袍ふところに夢を結んだ、子守歌の古く悲しい、遠い追懐のオルゴールを聴きいているのだ。「昔々しきりに思ふ慈母の恩」、これが実に詩人蕪村のポエジイに本質している、侘わびしく悲しいオルゴールの郷愁だった。

藪入りの寝るや小豆あずきの煮える中うち
 という句を作り、さらに春風馬堤曲を作る蕪村は、他人の藪入りを歌うのでなく、いつも彼自身の「心の藪入り」を歌っているのだ。だが彼の藪入りは、単なる親孝行の藪入りではない。彼の亡き母に対する愛は、加賀千代女の如き人情的、常識道徳的の愛ではなくって、メタフィジックの象徴界に縹渺している、魂の哀切な追懐であり、プラトンのいわゆる「霊魂の思慕」とも言うべきものであった。
  英語にスイートホームという言葉がある。郊外の安文化住宅で、新婚の若夫婦がいちゃつくという意味ではない。蔦つたかずらの這はう古く懐かしい家の中で、薪まきの燃えるストーヴの火を囲みながら、老幼男女の一家族が、祖先の画像を映す洋燈ランプの下で、むつまじく語り合うことを言うのである。詩人蕪村の心が求め、孤独の人生に渇かわきあこがれて歌ったものは、実にこのスイートホームの家郷であり、「炉辺の団欒」のイメージだった。

『郷愁の詩人与謝蕪村』 青空文庫

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