多摩のむかし道と伝説の旅 №130 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
多摩のむかし道と伝説の旅(№30)
−⼆ヶ領⽤⽔⽔辺の道を⾏く−3
原田環爾
踏切を渡ると道は左右に分かれる。枡形山へはどちらかも上れるが、ここでは左手から上ることにする。線路沿い左に入るとすぐ山へ向かう上り坂が分岐する。上り口の勾配はかなりきつい。この坂道は「くらやみ坂」と呼ばれている。800年前の枡形城への上り口のこの坂は、生い茂る木々で陽光を遮られていたことからこの名があるという。左にマンションを見てS字状に曲がると右手に寺の門前が現れる。寺は広福寺といい、枡形城の城主稲毛三郎重成の居館があった所と言われている。真言宗豊山派の寺で山号を稲毛山と号す。平安時代の承和年間(834~848)に慈覚大師(円仁)により創建され、鎌倉時代にこの地の領主稲毛三郎重成により中興されたと伝えられる。本尊は鎌倉末~南北朝初期の木造観世音菩薩立像という。参道右手に鐘楼、左手に本堂、正面奥に石段を上がって観音堂、裏は墓苑で、その一角に稲毛三郎重成の五輪塔がある。
因みに稲毛三郎重成は秩父流桓武平氏末で源頼朝の御家人である。町田の小山田(現大泉寺)に居館を構えた小山田別当有重の三男として弓矢に秀でた武人であった。稲毛の枡形山に城を構えて稲毛氏を名乗った。内室は源頼朝の妻で北条時政の娘である北条政子の実妹であるが、建久6年(1195)病死している。重成は悲しみのあまり出家し広福寺を氏寺として中興したという。建久9年(1198)3回忌供養にと相模川に馬入橋を架橋したが、この橋供養で頼朝が落馬して急死している。頼朝が亡くなると、幕府権力の掌握を狙う北条時政の謀略により、元久2年(1205)従兄弟で武蔵武士の鑑と言われた畠山重忠の謀殺に荷担し、ついには重忠謀殺の首謀者とされて、弟の榛谷四郎重朝とともに誅殺されている。
広福寺を後にして坂道をうねうねと登ってゆく。やがて民家も途切れがちになると前方に鬱蒼とした林が目に入ってくる。林に入ると風景は一変する。両側に深く落ち込む谷が現れ、かつての山城の要害としての地形がよくわかる。やがて標高84mの枡形山山頂に到着する。ここが枡形城址である。山頂は平らでしかもかなり広く、一般的に見られる山城の狭い山頂とはずいぶん趣が異なる。ベンチもトイレはもちろんのこと、小児のための遊具広場まであり、時には遠足の児童で賑わう時さえある。山頂には大きなエレベーター付きの展望台があり、上がれば東西南北、都心の大半を望むことができる絶好の眺望ポイントを提供してくれる。山頂広場の南西端には枡形門と称する重厚な歌舞伎門があり、ここを抜ければこの先の日本民家園など生田緑地の多くの施設につながっている。山頂の中央には枡形山頂を示す石標柱が立ち、展望台下の一角に枡形城址の由来を記した石碑が立っている。
枡形城址碑には次のように記されていた。枡形山は約7アールのほぼ正方形の平地を山頂とし、その四方は刀をもって削り去ったような絶壁で眺望もよく天然の要害をなしている。その名も形が枡に似たところに由来するのであろう。 源頼朝開幕の頃、領主稲毛三郎重成がここを居城としたと相伝え、下って永正元年、扇谷・山内 両上杉氏の抗争に際し、扇谷方に味方した北条早雲は、立川に陣する山内軍を攻めるため、伊豆から進軍して途中ここに布陣し、駿河の今川氏親もこれに駆け参じたことが当時の記録に残されている。また永禄12年、甲斐の武田信玄が小田原へ乱入したとき、土地の豪族横山式部少輔弘成は塁をここに築いて、北条氏のために守ったとの古伝もある。これらのことから、この枡形山が山城としてしばしば戦国の武将に利用されてきたことが推察される。
これより枡形山を下り終盤に向かう。城跡の北西部の「グリーンアドベンチャーコース」の案内板のある下山口から下る。鬱蒼とした樹林の中を急坂の小道を下る。小道はしっかりと丸太で階段として造られているので安心だ。一気に下り降りるとやや傾斜の緩い土の道に変貌する。左へグリーンアドベンチャーコースの分岐道が現れるが、これを無視し道なりに下ってゆくと明るい広場に出る。広場の中央には平らな石畳の上に、何やら短い電信柱の様な柱が約10本ばかり立っていて、まるで宮殿の跡のような雰囲気になっている。道はその宮殿跡を通り抜けて、やはり石を敷き詰めた参道を下るようになる。実はここはかつて戸隠不動尊というお堂あった跡地なのだ。昭和2年、枡形山のこの地に一堂が建てられ、信州戸隠神社の不動明王が安置されたという。信州戸隠神社の実動院にあった不動明王(像高39.5cm)と二童子は、明治初年、東京本所竪(立)川の法樹院に奉安されたが、その後昭和5年、現在地に本堂が建立され安置された。昭和40年、武相不動尊霊二十八札所の第二十六札所となり、酉年には多くの参詣者が訪れたが、平成5年焼失してしまったという。
戸隠不動尊の旧参道を下ると、左に「ほたるの里」へ入る分岐道が現れる。分岐道をやり過ごし更に道なりに下って行くと民家が建つ山麓の舗装道路に出る。舗装道路を更に100mばかり下れば一本の道に合流する。合流した道は専修大学の通学路になっていて、いつも狭い道に大量の学生が行き来する姿にぶつかる。実はこの道は旧鎌倉道の支道といわれる。枡形城の稲毛氏が幕府の御家人として鎌倉との往還に使った道筋であり、従って”稲毛氏の鎌倉道”ともいえる道筋なのだ。稲毛氏の鎌倉道に入って50mも下れば左手に鳥居が現れ、急勾配の石段が目に入る。天神社と呼ばれる社で、古くは韋駄天社と称したという。韋駄天は足の速い神として知られ、韋駄天像は今も広福寺の守護神として祀られているという。
ほどなく小田急沿線の道に出る。これより終着点向ヶ丘遊園駅へ向かうことにする。左手の踏切を無視し、くらやみ坂への道を右にやりすごし、そのまま線路沿いの道を進む。やがて左手から先の松本橋で見た五反田川が接近してきて、すぐさま追分橋で二ヶ領用水に合流する。追分橋の上からは2つの河川が合流する様子を見ることができる。追分橋を渡り街中を鍵の手に進めば向ヶ丘遊園駅はもうすぐだ。
なおこの先二ヶ領用水は府中街道に沿って東流し、JR南武線の久地駅付近で次節で述べる宿河原用水と合流することになる。(つづく)
2024-08-13 17:08
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