多摩のむかし道と伝説の旅 №130 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
多摩のむかし道と伝説の旅(№30)
−⼆ヶ領⽤⽔⽔辺の道を⾏く−3
原田環爾
踏切を渡ると道は左右に分かれる。枡形山へはどちらかも上れるが、ここでは左手から上ることにする。線路沿い左に入るとすぐ山へ向かう上り坂が分岐する。上り口の勾配はかなりきつい。この坂道は「くらやみ坂」と呼ばれている。800年前の枡形城への上り口のこの坂は、生い茂る木々で陽光を遮られていたことからこの名がある



広福寺を後にして坂道をうねうねと登ってゆく。やがて民家も途切れがちになると前方に鬱蒼とした林が目に入ってくる。林に入ると風景は一変する。両側に深く落ち込む谷が現れ、かつての山城の要害としての地形がよくわかる。やがて標高84mの枡形山山頂に到着する。ここが枡形城址である。山頂は平らでしかもかなり広く、一般的に見られる山城の狭い山頂とはずいぶん趣が異なる。ベンチもトイレはもちろんのこと、小児のための遊具広場まであり、時には遠足の児童で賑わう時さえある。山頂には大きなエレベーター付きの展望台があり、上がれば東西南北、都心の大半を望むことができる絶好の眺望ポイントを提供してくれる。山頂広場の南西端には枡形門と称する重厚な歌舞伎門があり、ここを抜ければこの先
の日本民家園など生田緑地の多くの施設につながっている。山頂の中央には枡形山頂を示す石標柱が立ち、展望台下の一角に枡形城址の由来を記した石碑が立っている。

枡形城址碑には次のように記されていた。枡形山は約7アールのほぼ正方形の平地を山頂とし、その四方は刀をもって削り去ったような絶壁で眺望もよく天然の要害をなしている。その名も形が枡に似たところに由来するのであろう。 源頼朝開幕の頃、領主稲毛三郎重成がここを居城としたと相伝え、下って永正元年、扇谷・山内 両上杉氏の抗争に際し、扇谷方に味方した北条早雲は、立川に陣する山内軍を攻めるため、伊豆から進軍して途中ここに布陣し、駿河の今川氏親もこれに駆け参じたことが当時の記録に残されている。また永禄12年、甲斐の武田信玄が小田原へ乱入したとき、土地の豪族横山式部少輔弘成は塁をここに築いて、北条氏のために守ったとの古伝もある。これらのことから、この枡形山が山城としてしばしば戦国の武将に利用されてきたことが推察される。
これより枡形山を下り終盤に向かう。城跡の北西部の「グリーンアドベンチャーコース」の案内板のある下山口
から下る。鬱蒼とした樹林の中を急坂の小道を下る。小道はしっかりと丸太で階段として造られているので安心だ。一気に下り降りるとやや傾斜の緩い土の道に変貌する。左へグリーンアドベンチャーコースの分岐道が現れるが、これを無視し道なりに下ってゆくと明るい広場に出る。広場の中央には平らな石畳の上に、何やら短い電信柱の様な柱が約10本ばかり立っていて、まるで宮殿の跡のような雰囲気になっている。道はその宮殿跡を通り抜けて、やはり石を敷き詰めた参道を下るようになる。実はここはかつて戸隠不動尊というお堂あった跡地なのだ。昭和2年、枡形山のこの地に一堂が建てられ、信州戸隠神社の不動明王が安置されたという。信州戸隠神社の実動院にあった不動明王(像高39.5cm)と二童子は、明治初年、東京本所竪(立)川の法樹院に奉安されたが、その後昭和5年、現在地に本堂が建立され安置された。昭和40年、武相不動尊霊二十八札所の第二十六札所となり、酉年には多くの参詣者が訪れたが、平成5年焼失してしまったという。



なおこの先二ヶ領用水は府中街道に沿って東流し、JR南武線の久地駅付近で次節で述べる宿河原用水と合流することになる。(つづく)
2024-08-13 17:08
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