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夕焼け小焼け №41 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

 新宿の記憶 その1

            鈴木茂夫

 昭和24年(1949年)から数年の新宿の記憶を掘り起こしてみよう。それはもう70余年前のことだ。記憶はおぼろげになっている。誤りもあるだろう。だがそれが私の新宿だ。

 新宿は江戸時代に江戸と甲府を結ぶ甲州街道の最初の宿場町として整備されていた。近代に入ると渋谷、池袋と共に3大副都心として発展してきた。戦時中の空襲で街は被害を受けたが繁華街、歓楽街、ビジネス街として復興した。
 新宿は2023年現在、いくつかの地区で大型ビルによる再開発の計画が進んでいる。これが完成すれば、新宿はこれまでにない新しい街となるだろう。
  
 古本屋でも見てみようと早稻田の周辺を歩いていたら、廣い庭園に入り込んだ。甘泉園と表札があった。近くにいた学生に訪ねたら、ここは早稻田大学のものだという。池を囲んで木々の綠が美しい。あてもなく路を行くと軟式のテニスコートがあった。40人ほどの学生が練習している。
 見ているうちにやりたくなった。
 「すこしやらしてください」
 「ああいいよ。君は新入生だろ。そこにあるラケットを使って。僕はマネージャーだ」
  半ズボンの背丈のある学生が、コートに入るように合図した。久しぶりだ。軽く打ち返す。彼が打ち返してきた。鋭いストレートだ。バウンドした球がトップに跳ねたところを思い切り叩いた。彼が笑いながら打ち返す。夢中になってラリーを楽しんだ。
 「いい球筋だよ。スピードを上げると良くなるね。良かったらメンバーになれよ」
 大学の庭球は鋭い。高校とは違う。集中して打ち続けた。気がついたら夕方だ。2時間近くプレーしていた。身体の気力を使い切った気分だ。そしてなによりも空腹だ。お礼をいってコートを後にした。メンバーになるのはいいなと思う。

 高田馬場まで歩き、山手線に乗り新宿で下車。東口から地下道へ入り西口に出た。線路に寄り添うようにバラックづくりの店が立て込んでいる。その外側にもう一列店がならんでいる。初めて来た場所だ。大福餅と書いた標識の店が3軒もある。その1軒で大福餅を注文した。1個60円。出されたお茶で喉を湿しながら大福餅を味わう。お腹に染みて美味だ。若い店の主人が愛想笑いをしながら、
 「うちの大福餅はもとがいいからうまいんだよ」
 すこし日本語のアクセントにくせがある。
  「わたしは台湾人。戦争に負けたのは日本人。だからわたしは第三国人。食糧の管理など日本の法律関係ない」
 いつもそう言っているのだろう、話慣れた口調だ。
 その店の隣に中華そばの店があった。五目そばに惹かれて注文する。大ぶりの丼に、文字通り五目がのっかったそばが出てきた。焼き肉、卵、イカ、野菜などがたっぷりと盛られている。戦後初めての豪華版だ。思わず笑顔になる。店の主人も笑顔で見ている。夢中で食べた。 丼を両手で持ち最後の汁をすするようにして飲み干す。お腹が温かい。代金120円を支払う。
 財布の残金を見る。今月の小遣い3000円から教科書を買ったりして1700円ほどになっていた。ふと我に返った。テニスの後の空腹に、五目そばを食べると2週間で残金は底をつく。テニスをやるのは無理だ。それに五目そばを食べるのも無理だ。この二つは諦めるしかない。

 新宿駅の西口には、人気の無い広場に浄水場の広がっている。それに隣接して精華高等女学校と看板のある校舎が広がっていた。学校が閉鎖してしまっているようだ。すこし明るい人通りに出ると淀橋警察署があった。
 駅の方角に戻る。平屋建ての小田急線と京王線の乗り場の案内がある。乗り場をめざす人の群れ。バスがたまに通る。その近くに和服の女性、洋装の女性、さまざまないでたちで10人ぐらいのぐらいの女性が離ればなれに立っていた。
 見ていると男が近づき女と二人連れとなって歩いて行く。立ちんぼの街娼だ。バンバンとも呼ばれる。近づくとつくり笑いを浮かべた。私は慌てて頭を下げた。

 線路にそったバラック建てのマーケットは、戸板一枚で仕切っている。天ぷらだの,寿司だの,焼き肉だのの店が並んでいる。そこそこの値段で提供している。味は悪くない。
ラッキー・ストリートと言ったが、思い出横丁と名を変えた。その中の一軒が奇妙なものを売っている。店の名前は覚えていない。丼によそった流動体だ。店の主人は、
 「これは新橋の第一ホテルを接収している進駐軍の兵士の残したシチューだ。中で赤く見えるのはコーンビーフ、混ぜ物はないよ」
 それは安いのが一碗10円、高いのが30円だ。安いのはみずで薄めている。高いのは出てきたままのもの」
 残り物に特有の匂いがする。思い切って流し込むようにするのだ。渋谷食堂に行く金が無いときは、当然10円のもの、腹が空いているときは、10円のを二つ頼んだ。

  新宿西口で忘れられないのは韓国料理の明月舘だ。終戦直後に開店した。もしかしたら東京で一番古い店かも知れない。アルバイトで稼いだ700円があったとき、店の客になり300円払った。七輪の上に金網を置き、肉を焼いた。いくつもの七輪から煙が立ち上がる。煙に包まれて肉を口にした。それが焼き肉だった。体中に気力が流れた。

  新宿を眺めるのにJR新宿駅を真ん中に置く。そして街を左右・東西に分ける。まず東から見てみよう。
 駅舎の正面に新宿通が伸びている。右手に高野のフルーツパーラー、カレーライスと肉まん中村屋、三越百貨店が並ぶ。それに続いて帝都座,帝都座の5階にある,日活名画座は安い料金でフランス映画を楽しめた。 夢中で映画を見ていたのだ。思い出すままに見た映画を列挙してみよう。

 「舞踏会の手帳」、「モロッコ」「巴里祭」、「霧の波止場」、「望郷」、「にんじん」、「商船テナシチー」、「未完成交響楽」、「乙女の湖」、「心の旅路」、「鉄道員」、「カサブランカ」、「ミモザ舘」、「邂逅」、「地の果てを行く」,「南方飛行」、「どん底」、「終着駅」、「モダンタイムス」,「うたかたの恋」、「風と共に去りぬ」、「哀愁」、「ローマの休日」、「慕情」、「歴史は夜作られる」、「白鳥の死」,「民族の祭典」,「駅馬車」、「我が道を往く」、「旅情」、「天井桟敷の人々」、「汚名」、「第三の男」,「雨に唄えば」、「恐怖の報酬」、「昼下がりの情事」、「ベン・ハー」、「会議は踊る」、「モンパルナスの夜」、「また逢うまで」,「自転車泥棒」、「海の牙」、「我が道を往く」、「帰らざる河」,「美女と野獣」、「外人部隊」、「黄金時代」、「巴里の屋根の下」、「自由を我等に」,「大いなる幻影」、「ラ・マルセイエーズ」、「旅路の果て」、「鉄路の闘い」、「白痴」,「肉体の悪魔」、「双頭の鷲」,「北ホテル」、「霧の波止場」,「しのび泣き」、「犯罪河岸」、「情婦マノン」。

 名画座はいつも混んでいた。入れ替え制ではなかったから、いつまでもいた。通路に座り込むのだ。映画の途中からみはじめ、次ぎに頭から上映されると、先に見始めたところと話のつじつまが合う。頭の中で映画の編集をしたのだ。
 
 昭和25年(1950年)春に今井正監督の「また逢う日まで」が上映された。

     昭和18年、東京は空襲にさらされていた。2人の若い男女,田島三郎と小野蛍子   が出会う。惹かれる2人。三郎に召集令状が来る。蛍子の家のガラス窓ごしに接吻。
   蛍子は出会う約束の場所で爆死。三郎は蛍子に会えず戦地へ。昭和20年、戦争が   終わったとき、三郎の肖像画は黒布に包まれていた。

 若い世代に深い感動をもたらした。私はつごう3回見た。そのつど新たに涙が出てきた。
 図書館で原作と言われるロマン・ロランの「ピエールとリュース」も読んだ。

 映画と劇場の帝都座。女体を額縁に登場させる額縁ショウで話題を呼んだ。ここの5階の名画座は入場料30円で主にフランス映画を上演。学生にはなくてはならない映画館だ。後年映画評論家になった人たちの揺籃と言って良い。
 新宿は映画館の街でもある。 私の記憶では20舘あった。新宿ローヤル、新宿西口パレス、新宿日活名画座、新宿文化、シネマ新宿、新宿日活オスカー、新宿ロマン、 新宿京王名画座、アルゴ新宿、 新宿日活、、新宿東映、新宿東宝、新宿大映、昭和舘、ヒカリ座、地球座、新星舘、新宿松竹。それぞれの映画館には広告があった。映画のハイライトを描き出した看板だ。看板に惹かれて入った店が何軒もある。
 映画館の売店は大事だ。どこもそんなに変わったものは無い。ポップコーン、煎餅、缶コーヒー、コーラこのへんが定番だ。ソフトクリームが登場したのはかなり後だ。夢中になって食べ過ぎると胸やけを起こしたりする。

  新宿で賑やかなのは東口だ。駅舎の正面には路を隔てて二幸ビル(現・アルタ)。右手には和田組のマーケットと呼ばれるバラックの飲み屋街、シナそ焼き鳥、焼き豚、チャーハン、天ぷら、一膳飯、餃子なんでもあった。高野フルーツパーラー、カレーライスの中村屋本店、馬上盃、洋食なんでもの渋谷食堂、映画の武蔵野館、ここの地下の小映画館はなぜかいつまでもお産の映画を上映していた。
 ライオンビアホール、赤い風車の飾りをつけた劇場ムーランルージュがある。この劇場はストリップ・ショウも軽演劇もごちゃ混ぜの面白さだった。踊りはそれほどではないが20代の女体が発散する若さはまぶしかった。ストリップの合間に登場する男役は笑いをとろうと苦心していた。名優森繁久弥もこの頃、出演していたという。無名の森繁を知るよしもなかった。
 表通りの向かい側には少し奥まって木造二階建ての紀伊國屋書店がある。岩波書店の書籍は二階にあった。斎藤茂吉の『万葉秀歌』上(赤版)を買う。評判になっているのだ。
 書店の正面の横に紀伊國屋が運営する喫茶店がある。私はそこで『万葉秀歌』を開いた。
斎藤茂吉は「万葉集」のなかでも柿本人麻呂を深く学んだ。惟信高校の坂本右先生も斎藤茂吉に傾倒していた。万葉世界に入り込んで、斎藤茂吉に接している感じがした。東京のど真ん中にいる嬉しさがあった。紀伊國屋書店で本を買うと喫茶店に入るのがしきたりのようになった。
 三越百貨店の裏に、天ぷらの船橋屋とつな八が隣り合うようにして看板を出していた。学生のときは看板を見るだけだった。給料をもらうようになって店の客になったとき、どちらの天ぷらも甲乙つけがたい美味しさだった。喫茶店のローレルは二階建て、少し高価なコーヒーで客を集めていた。その裏手にある風月堂は新宿の一つの顔だ。ここでは議論が絶えない。

 二幸ビル「現・アルタビル」の裏手に昭和38年(1963年)に洋食屋アカシアが誕生。ロールキャベツを表看板に今も繁盛している。このころは給料取りになっていた。職場の仲間と訪問。「悪くない味わいですね」との批評だった。
 進駐軍が接収している伊勢丹ビル。その向かいのビルの5階にはドイツ料理エッセン。ハム、ソーセージ、ジャガイモが登場。安いので若い世代でいつも混み合っている。
 ザウアーブラーテンをよく注文した。ドイツ料理の定番と言われる。子牛の肉をワインビネガーで浸して煮込み、香辛料で味を調えたものだ。ボリュームがあって飽きなかった。
 妻となった貞子と、友人同士として食事を共にするようになっていた。それもドイツ料理を愛好した大きな理由の一つだ。

 新宿の芯の一つ歌舞伎町は戦後復興の流れに添って生まれた。歌舞伎町は福岡の中州、札幌のススキのともに日本の三大歓楽街といわれる。明治通り、靖国通り、JR中央線、職安通りで東西南北を囲んだ地域をさす。西武新宿駅の周辺が歌舞伎町一丁目、北側が歌舞伎町二丁目だ。
 
 歌舞伎町一丁目には飲食店、風俗店,居酒屋、酒場、クラブなどが密集している。ここではいくつかの映画館が閉館したが、令和5年(2023年現在、)地上48階、地下5階建ての新宿東急歌舞伎町タワーが完成した。高さ225メートル、ホテルが2つ。HOTEL GROVE  SHINJUKU,APARKROYAL HOTEL、BELLUSTAR TOKYO A PAN PACIFIC .映画は 109シネマズプレミアム新宿、エンターテインメントにはTheater Milano-zaがある。街の景観は変わった。


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