浅草風土記 №31 [文芸美術の森]
浅草田原町 4
作家・俳人 久保田万太郎
四
作家・俳人 久保田万太郎
四
「横町がたくさんにあります」とあたしはそう書いた。――そのたくさんある横町の一つ
にわたしは住んでいた。――「……三丁目の大通りの角につるやという大きな際物屋があります」と書いた、その、大きな際物屋の横町にわたしの生れたうちはあった。
改めていえば浅草広小路。――そのあたりで、だれも、そう呼んでいる、雷門と、本願
寺の裏門との間の大通りの、北側に二つ、南側に四つある横町の一――南側の、その雷門のほうからいって三つ目の、とくに名けられていない横町にわたしの生れもすれば育ちもしたうちはあった。
とくに名けられていないという謂は、そこを除いた外の横町は、すべて、南側の一つ目
のものに松田の横町、二つ目のものに大風呂横町、四つ日のものに源水横町。――同じく
北側のものにちんやの横町、二つ目のものに伝法院横町。――そうした呼び名をいちいち
に持っていたのだった。
五
その、とくに名けられていない横町を入ってすぐの右側。――三丁目はわたしのうちで
尽きて、小さな溝一つを境界にわたしのうちの隣から二丁目になった。――わたしのうち
の反対の側は、田原町でなく、東仲町という名で呼ばれた。
「……横町に入ると、研産だの、駄菓子屋だの、髷入屋だの、道具屋だの、そうでなけれ
ば、床屋だの、米屋だの、俸屋だの、西洋洗濯屋だのといったような店」の並んでいるこ
とを書いたのは、いわず語らずに、わたしは、「つるやという大きな際物屋」の横町のこ
とばかりを書いたかたちがある。――けだし、研屋も、床屋も、米屋も、道具屋も、それ
らは、皆わたしのうちの手近にあつまった、小さな、寂しい店々(みせみせ)だった。
もらった娘のわるかったばかりに零落した常磐津の師匠は、わたしが覚えて、あとで床
屋になったところに、わたしの十二三の時分まで、格子のそとに御神燈をさげていた。――その二三げん置いたとなりの道具屋、じゃんこの、愛想っ気のない主人を持った古道具屋は、後に、わたしの十五六の時分に、幾多の変転のあったあとで、そのころ流行りかけた洋食屋になった。……その前後に、以前髷入屋のあったところに小さな印刷所が出来た。――そうしたことによって、横町の色合(いろあい)はだんだん変って行った。
その間にあって、二丁目の、わたしのうちの並びながら、わたしのうちとは半丁ほど離れた大工のうち。――太いがっしりした感じのする格子をおもてに入れたうちの、毎年、七月になると、往来からみえるまどのなかにふ必ず、いつも、大きな切子燈寵が下げられた。――その、しずかな夢のような灯影こそ、そのあたりのおもいでを人知れず象徴するものだった。
六
「ただ、わたしは、親に給金を仕送るために女中奉公に出たおたみという女を、その女の
不幸な生涯の世の中に向けて、だんだん、展けて行く筋みちを描こうと企てたばかりだっ
た。――が、毎日一回ずつ書いて行くうちに、わたしは仮りにその舞台にとったわたしの
生れたうちの来しかたがだんだん可懐(なつか)しく思い返されて来た。わたしは思い出に浸りながら筆を遣った。――わたしのおたみを守る眼はともすれば、よしない雲霧のためにさまたげられた」と、嘗て「東京日々」に書いた「露芝」という小説を一冊にまとめたとき、そのあとに、わたしは、こうしたことをとくに書いた。
が、独りこれは「露芝」にのみとどまらない。――その以前にあって、わたしは、「ふゆぞら」を書いたとき、「盆まえ」を書いたとき、「きざめ雪」を書いたとき、「暮れがた」を書いたとき、「宵の空」を書いたとき、「ひとりむし」を書いたとき、「雨空」を書いたとき、「四月尽」を書いたとき、おなじく思い出に――生れたうちの寂しい思い出に浸りながら筆を遣った。
生れたうち。――田原町の、とくに名けられていない横町の生れたうちに対するわたし
の愛着がこれらの作をわたしにえさせた。――「ふゆぞら」も、「盆まえ」も、「さざめ雪」も、「暮れがた」も、「宵の空」も、「ひとりむし」も、「雨空」も、「四月尽」も、そうして「露芝」も、偏えにそれは、大工のうちの切子燈寵の、しずかな、夢のような灯かげにうつし出されたわたしの、悲しい「詩」に外ならないとわたしはいいたい。
(明治四十五年/大正十三年)
『浅草風土記』 中公文庫
『浅草風土記』 中公文庫
2024-07-29 19:41
nice!(0)
コメント(0)
コメント 0