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雑記帳2024-8-1 [代表・玲子の雑記帳]

2024-8-1
◆三光院サロンの「京都ルネサンス」、夏の講座は蕪村です。

江戸中期に活躍した与謝蕪村は画・俳 二つの道を息、いずれにおいても余人を許さない足跡を残しています。享保元年(1716)生、天明3年(1783)没。同じ年に伊東若冲がうまれています。池大雅、円山応挙も同時期、住んだ場所も若冲の住まいのあった錦市場を中心に極めて近い場所にいたこともあって、この4人の活躍した時代を「京都ルネサンス」と呼ぶ人もいます。

芭蕉と共に日本の俳句の道を開いた蕪村でしたが、画家としての評価が高かった割には、俳聖と言われた芭蕉の陰で、俳人としての評価は決して高くありませんでした。
その蕪村を「先進的で優れた俳人」として発掘したのが正岡子規でした。萩原朔太郎も子規に続き、蕪村を『郷愁の詩人」と呼び、ました。(『知の木々舎』では現在、朔太郎の「郷愁野詩人与謝蕪村」を連載中です。)明治の新体詩に先駆けて、「近代的な感覚を持って斬新な俳句を生み出した先駆的な俳人」は、与謝野晶子、石川啄木、北原白秋ら当時の多くの文人たちに影響を与えたのでした。

蕪村が残した買いがと俳句をしさいにみると、絵画も俳句も不可分・一体のものであったことがわかります。いくつか紹介しましょう。

先ず「花の香や」の扇絵です。

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賛は「花の香や 嵯峨の灯火(ともしび) きゆる時」 
絵は昼の光景を描いているようにみえますが、民家に灯る明かりによって、夜も同時にえがかれているのです。民家の灯が消えて暗闇の中に、ほのかに花の香がするという句にたいして、明かりを触媒に、嗅覚の世界をも表現しているのです。


次に「暗夜漁舟図」。

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篝火を焚いて漁をする親子がえがかれています。
水面に反射する篝火を蕪村は墨絵でえがいています。
遠くの家には明かりがともり、漁をしている父と子を待つ母親がいることをうかがわせます。
これには賛がありませんが、あるとすれば「住む方の秋の夜遠き灯影かな」でしょうか。
萩原朔太郎はこの絵を評して「蕪村は郷愁の詩人である」と書いています。

「新緑杜鵑(とけん)図」

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若葉が萌え始めた新緑の頃の、日本独特の湿潤な気候が表されています。中国の山水画とは違う、柔らかい風景です。かすかに樹木々の間から空中に一羽のホトトギスがとんでいるのが見えるでしょうか。実はホトトギスは鳴き声をよむ鳥と言われ、姿の見えない鳥です。絵はホトトギスの鳴き声を視覚化して、日本的な感性をとらえた山水画といえます。
賛は「ほととぎす 平安城を すじかいに」

蕪村は享保元年、摂津国毛馬村(現在の大阪市都島区毛馬)に生まれましたが、20歳で江戸に出るまでのおいたちについては生涯語ることはありませんでした。一説には母親が正妻ではなかったのではないかと言わていますが、生母への思慕は生涯持ち続けていたように思われます。

江戸に出た蕪村は俳人早野巴人の住み込み弟子になりました。巴人は芭蕉の門人だった企画と風説の指導を受けた俳人で、蕪村は芭蕉の、いわばひ孫弟子にあたります。師を通して芭蕉への憧れをつのらせ、敬愛は生涯変わることはありませんでした。

27歳の時巴人が死去。蕪村は江戸を離れて結城へ、この地で出家。結城を拠点に北関東を旅し、時には芭蕉の足跡をたどって奥州にもおもむきました。西行伝説の残る栃木県那須町には「遊行柳」を読んだ句がのこされていて、実は芭蕉も同じところで句をよんでいるのです。

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   道のべに清水流るる柳かげ しばしとてこそ立ち止まりつれ (西行)
     柳散り 清水涸れ石ところどころ  (芭蕉)
     田一枚 植えて立ち去る 柳かな  (蕪村)

29歳で初めて蕪村をなのります。その時詠んだ句は明らかに芭蕉を意識したものでした。
   古池に 鶯鳴きぬ 日もすがら  (蕪村)
   古池や 蛙飛び込む 水の音  (芭蕉)

結城で世話になった俳人・早見晋我が亡くなった際に詠んだ長編詩「北寿老仙を悼む」は、清新な抒情性と深い感情に満ちた先進的な「新体詩」として、後世、萩原朔太郎によって絶賛されました。長いので少しだけ紹介します。

   君あしたに去りぬ ゆふべのこころ千々に
   なんぞはるかなる
   君を思ふて岡のべに行きつ遊ぶ
   をかのべ何ぞかく哀しき


   蒲公英(たんぽぽ)の黄に薺(なずな)のしろう咲きたる
   見る人ぞなき
   雉子のあるか ひたむきに鳴くを聞けば

   ・・・ 

   ・・・ 

31歳で江戸に戻り、芝・増上寺の近くに住んで、漢詩人として知られた服部南部に漢詩・漢文をまなびます。
服部南部は江戸・文人画の先駆者のひとりでした。烏孫が俳画を描くきっかけになったともいわれています。

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36歳で再び江戸を離れ、京におもむきます。江戸の師であった早見巴人がかって京都で門人を抱えていた縁で、その門人たちにむかえられたのです。

39歳で京を離れ、丹後の宮津に向かいました。結城の浄土種の寺でで出家した縁で、ここでも浄土宗の見性寺に寄宿しています。

宮津で3年間、絵を描き、句を作る生活を送っていますが、近くの加悦(かや)与謝野町が蕪村の母の出身地であるという伝説があります。蕪村はここにも足をはこんでいます。


下図は蕪村が丹後で描いた山水図です。陶淵明をえがいた三幅には、有名な「帰去来辞」の「帰りなんいざ 田園まさに蕪れんとす」がみえますが、蕪村の名は実はここから採ったものだったのです。

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その後、42歳で再び京へもどり、ここでようやく腰を落ちつけることになるのですが、こうして前半生を見てみると、まさに「一所不在」、行脚と修行を繰り返していたように思えます。でも、赴く先々で、不義理はしていない、師や世話になった人に対する敬愛のねは強く、誠実な人となりがうかがえました。後半は京に腰をすえて独自の世界「画俳二道」に精進する蕪村を学びます。

三光院の7月の献立には押し胡瓜の酢のもの、おなすの枝豆和えが加わりました。
ご飯は青じそのおばんです。

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押し胡瓜の酢のもの
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お茄子の枝豆和え
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