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多摩のむかし道と伝説の旅 №129 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

多摩のむかし道と伝説の旅(№30)
−⼆ヶ領⽤⽔⽔辺の道を⾏く−2

            原田環爾

 交差点から先の⼆ヶ領⽤⽔は⾒事な親⽔護岸⼯事が施されており、素晴らしい親⽔緑地となっている。元は農業⽤⽔、⽣活⽤⽔であったが、時代とともに河川環境の改善や緑化が求められるようになって、平成2年親⽔護岸⼯2-1.jpg事が⾏われたという。⽔辺に降りられる所もありなかなかいい。ほどなくJR南武線の踏切を渡る。踏切を渡って40〜50mばかりの所には、直径10cmばかりの丸太を何⼗本も打ち込んだ乱杭堰(⽊杭に⼩枝を絡ませるので草堰ともいう)とその⼿前左岸に分⽔⼝が⾒られる。ほどなく中野島橋の袂に来る。右岸の通りの筋向いに雑草で覆われた⼩さな堀跡のようなものが斜めにぶつかっている。⽩い解説版があり、ここが⼤丸⽤⽔跡であることが記されている。⼤丸⽤⽔は多摩川の上流、稲城市の⼤丸から取り⼊れられ、中野島付近を潤していた。⽔量が少なく⽔争いの種でもあったという。明治の中ごろまで、この地点に⼆ヶ領⽤⽔と⽴体交差する樋があった。
2-2.jpg2-3 のコピー.jpg 続いて⽥村橋を過ぎ、中野島中学校前の北星橋を過ぎると沖川原橋という⼩さな⽊製の⼈道橋にくる。奇妙なことに沖川原橋は⼆ヶ領⽤⽔に架かっているのではなく右岸歩道上に並⾏している。よく⾒ると右⼿南側から⼆ヶ領⽤⽔にほぼ直⾓に流れ込む⽤⽔に架かっている⼩橋なのだ。実はこの⽤⽔こそ旧三沢川で、ここが旧三沢川と⼆ヶ領⽤⽔との合流点になっている。更によく⾒ると右岸の通りもここでは橋そのもので、傍らの古びた橋標⽯には「みさわがわば」「昭和⼗年 竣⼯」と刻んであった。従って沖川原橋の名は本来不適当で「旧三沢川橋⼈道橋」とでもするのが正解だろう。
2-4.jpg これよりしばらく⼆ヶ領⽤⽔は北の中野島地区と南の⽣⽥地区との境を流れる。新川橋を過ぎ橋本橋の袂にくる。橋本橋は⾞両が多く⾏き交う⾞道になっている。橋本橋の北詰めの⼀⾓に古い⽯の道標が⽴っている。表⾯に「正⾯ 當字ヲ経テ調布村⽅⾯」「→ ⼟淵ヲ経テ⾼⽯柿⽣村⽅⾯」「← 登⼾ヲ経テ榎⼾⾼津⽅⾯」と記され昭和三年御⼤典記念で造⽴したものとなっている。橋本橋から⼤和橋の⼿前までは狭いながら河川敷に⼩道がついており親⽔歩きができるようになっている。途中、⼀本⼊圦橋を過ぎ紺屋橋の下をくぐるが、紺屋とは染物屋のことで、この付近に⽤⽔を利⽤した紺屋があったことに由来している。なおこの⼀本⼊圦橋から紺屋橋辺りはかつては堰があったというが今は姿を消して⾒られない。やがて台和橋の袂にくる。ちょっとレトロな橋に結構⾞の通⾏がある。⼿す2-5.jpg2-6 のコピー.jpgりには⼩泉次⼤夫のレリーフがはめ込まれている。この台和橋下には南から⼭下川が合流している。橋を渡って左岸にまわり更に⽔辺を進む。この辺りの両岸は北が登⼾地区、南が枡形地区になっている。⽔辺の景観は次第に中⼼市街地の様相を呈してくる。やがて新川橋で激しく⾞両の⾏き交う県道3号線と交差する。新川橋を後にすると前⽅に⼩泉橋が⾒えてくる。この橋を通る道筋は古からの津久井道で、江⼾と津久井との往還路である。何の変哲もない平凡な橋だが、かつては市内最古の⽯橋が架かっていたという。この辺りは近年の⼤規模な都市改造で、津久井道はすっかり直線的に整備され、かつて2-7.jpgの旧道のイメージはなくなっている。因みに⼩泉橋は古くは榎⼾橋とも称し、元は天保15年(1844)の市内最古の⽯橋であったという。橋の名の由来は⼟地の豪農⼩泉利左衛⾨が架けたことによるもので⼩泉次⼤夫とは関係ない。神奈川新聞社発⾏「⼆ヶ領⽤⽔400年」にこんな話が記されていた。それによると利左衛⾨の家に寄寓していた盲⼈が3両余りを残してなくなった。⽣前、村内の⽤⽔に橋がなくて困っていたことを知り⽯橋を架設することを思いたった。そこで盲⼈の残した3両を基⾦に、⾃ら念仏講をひらいて⽯橋供養にと村々を念仏修⾏して廻り浄財を集め、さらに私財も投げ出して架橋資⾦に充てた。⽯材は伊⾖で調達し多摩川を船で運んだという。そして思い⽴ってから18年後の天保15年⽯橋は完成した。その功績により幕府から苗字か帯⼑のいずれかを許されることになり、苗字を選んで⼩泉を名乗ったという。時代は下って明治33年(1900)陸軍砲兵隊が多摩川での演習の折、⼩泉橋から砲⾞を⼆ヶ領⽤⽔に落とし橋を損壊した。その時利左衛⾨のひ孫の弥左衛⾨が私財を投じて改修したという。
 なお津久井道は三軒茶屋を起点とし、登⼾、⽣⽥、万福寺、柿⽣、鶴川、橋本を経て津久井へ⾄る道である。津久井往還ともいう。沿道の⼈々の⽣活を⽀える商業路で、⿇⽣の禅寺丸柿や⿊川炭、絹の原料の繭を江⼾に運ぶ道であり、また津久井、愛甲地⽅の⽣⽷などがこの道を通って江⼾へ運ばれた。
 これより先、⼆ヶ領⽤⽔⽔辺の道は⼀旦終わりとし枡形城址へ向かうことにする。⼩泉橋で津久井道に⼊り橋2-8.jpgを渡るとすぐ⾞の⾏き交う幅の広い府中街道と交差する。右⼿⼩泉橋の南詰に変わった形状のモニュメントが⽴つ。「市制60周年祈念」と記した⽯標柱だ。以前は左側の⾓に1本の榎があり、その傍らに「市制60周年祈念」の⽯標柱が⽴っていた。榎はこの辺りを榎⼾と称していたから榎が植えられていたのだろう。ここは交通の要衝で明治〜⼤正の頃は銀⾏や⾺⾞の発着所があったという。府中街道を渡る2-9.jpgと津久井道は狭い街路となる。古びた家並みを進むとすぐ津久井道は右へ折れる道となる。この先津久井道は採らず枡形⼭へ向かう。狭い街路を抜けると松本橋の袂に来る。下には五反⽥川が流れている。五反⽥川は⿇⽣区の⾼⽯辺りを⽔源とする川で、この橋から下流200mばかりの所で⼆ヶ領⽤⽔に合流している。松本橋を渡るとほどなく⼩⽥急⼩⽥原線の踏切に出る。踏切の向こうはもう枡形⼭の⼭麓で上り坂が⽬に⼊る。(この項つづく)



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