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海の見る夢 №82 [雑木林の四季]

         海の⾒る夢
        −聴くということー
               澁澤京⼦

・・しかし我々の⾒るところによれば、権威はなくなったのではなく、むしろ⽬にみえなくなっただけである。あらわな権威の代わりに、匿名の権威が⽀配する。その装いは常識であり、科学であり、精神の健康であり、正常性であり、世論である。

・・簡単に言えば個⼈が自分自身であることをやめるのである。すなわち彼は文化的な鋳型によって与えられるパーソナリティを、完全に受け⼊れる。そしてすべての⼈々と全く同じような、また他の⼈々が彼に期待する状態になりきってしまう。私と外界の矛盾は喪失し、それと同時に、孤独や無⼒を恐れる意識も消える。しかし彼の支払う代価は高価である。すなわち⾃⼰の喪失である。
              〜『⾃由からの逃⾛』E・フロム

E・フロムは、ファシズムは魂の問題であると考えた。自己を喪失した魂は権威や国家、あるいは集団と同⼀化しようと欲望する。そして当時のナチスによる破壊と暴力を支えていたのはドイツの上流階級やブルジョワの諦念と無関⼼、下層中産階級の「〜強者への愛、弱者に対する嫌悪、小心、そして本質的な禁欲主義というようなことである。‥彼らの人生観は狭く、未知の人間を猜疑嫌悪し、知⼈に対しては詮索好きで嫉妬深く、しかもその嫉妬を道徳的公憤として合理化していた」〜『自由からの逃走』と⾔った特徴などであった。ヒットラーは大衆の心理をよく把握していたのである。

都知事選が終わり、小池百合⼦氏の圧勝となった。都民として正直がっかりした・・神宮外苑伐採に反対する蓮舫氏を応援したが、それと政策は今一つ具体的によくわからない石丸氏がいて、その二人に共通するのは「媚がない」「対立を恐れない正直さ」であって、そうした姿勢が小池氏には欠けている。小池氏にチラチラと見えるのは、表面的には愛想がいいが、裏では何をしているのかよくわからない裏表のある人間性であって、故・安倍総理と言い、なぜ⽇本ではこのように表面を取り繕うような人物が好まれるのだろうか?

マスコミは都知事選を放送せず、真綿で首を絞めるようなファシズムがじわじわと広がっているような気がする。

石丸氏について評価は真っ⼆つに分かれるが、そもそもなぜ攻撃的な石丸氏が評価されたのか?彼は「政治屋を⼀掃する」と勢いよく宣言したが、「自己保身」「顔色うかがい」「人気取り」「⽇和⾒主義」「先に結論ありきの議論」「腹黒さ」・・こうした特徴を持つ今の与党のあいまいな体質とマスコミにいい加減にうんざりしている⼈が、若い世代を中心に石丸氏を支持したのだろう。ただし、石丸氏の政策には具体性がなく矛盾もあり、小池百合子氏の路線とほとんど⼀緒のところもあったので、私は彼を⽀持しなかった。

これを書いている今、フランスの選挙では極右に対し左派が圧勝、イギリスでも保守に対して労働党の圧勝。世界中で右傾化が蔓延している今の時代、(なんとかしないと⼤変だ)という英国とフランスの民意の現れであり、左派の弱体化=福祉の衰退、にうんざりしたのだろう。(そういう意味で小泉政権時代から自民党は、フランスの極右政党に近い)いまだにヨーロッパでは民主主義が機能し、有権者が政策で選んでいるのに対し、日本できちんと候補者の政策を吟味して投票する有権者っていったいどのくらいいるのだろうか?ほとんどが、イメージで、あるいはトレンドだからという理由で投票しているんじゃないだろうか?自民党=安定、共産党=怖いといった化石化したステロタイプのイメージ。特に、孤独を恐れる日本人は、常にマジョリティから外れることを危惧し、当たり障りのないことしか口にせず、他人に引きずられて皆と一緒の価値観を持ちたがる⼈が多い様な気がする。孤独を恐れると言う事は、考える時間も持たないということで、候補者を政策ではなくて、イメージやトレンドで選ぶのも仕方ないのかもしれない。そうすると候補者も、政策より自分のイメージだけを強調することになってゆく。

フロムは、人の思考能力を奪うものとして権威主義と冷笑主義、無関心を挙げているが、「考える」人と同時に少ないのが「聴くことができる」人だと思う。候補者の政策を吟味するのも相手の主張をじっくりと「聴くこと」なのである。

⼈と⼈との信頼関係には、長い時間をかけた友情の熟成と誠実さが必要だが、それ以前の問題として他人の話をじっくりと「聴くことができる」忍耐力を持つ人が少なくなったように思う。相手を理解しようと努力するのではなく、安易に結論を出して自分勝手に決めつける短絡的な⼈間が増えた事には⾮常に危機感を持っている。

「考える」も、「他⼈の話をじっくり聴いて理解しようとする」ことも同じコインの裏表なのであり、そのためには孤独な時間を必要とする。その反対の「何も考えない」「他人の話を聴けない」「短絡的に決めつける」が蔓延すれば、バラバラの個⼈はますます安易な絆に飛びつくだろう。ファシズムというのは、まさにそうした孤独に堪えられない⼈々による偽の連帯ではないだろうか。

フロムの晩年の著書である『聴くということ』を読むと、フロムがいかに誠実に患者に寄り添い、相⼿に耳を傾けたのかがよくわかる。忍耐強く相手に寄り添って「聴くこと」、そして理解しようと努力すること、それこそまさに「愛」そのもので、今の日本人に欠けているものではないだろうか。


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