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夕焼け小焼け №40 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

暮らしの算段 大倉の夏 1

          鈴木茂夫

  私の寄寓する天理教東中央分教会は、明治神宮表参道から横に入ったところにある。
 教会長の柏木倉治(1888-1977) は天理教教会本部の役員で参議院議員だ。大分県中津藩の武士の家系。中津中学を終えると朝鮮・京城に渡り材木店を開く。勤勉に働き材木店は成長、手広く営業した。
 山口県の寺院の娘・明子と結婚。子どもをもうけたが、何人も幼児のうちに病をえて死去。たまたま男児が生まれたときに、天理教の布教師が、運命を開くのにとすすめられ信仰しはじめる。3人の子どもに恵まれ、それぞれすこやかに育った。
 柏木夫婦は神様の守護によると感謝、自分たちも布教をしようと東京へ出た。借家を布教所として布教活動をはじめた。信者になってもらうのは容易なことではなかったが、庫治は人に好まれる明るい性格と弁が立つので信者を増やすことができた。そこで布教書から分教会へと発展していた。

 柏木倉治は子どもが立派に育ったのは、信仰と神様の守護によると誇りにしている。
 長男の大安は,東京大学農学部の土壌研究室の副手として勤務している。妻は天理教大教会のなかの最古参東本大教会の娘。
  次男の正幹は父・柏木倉治の公設秘書。妻は某大教会の娘。
 長女長子は一流商事会社に勤める天理教会の息子の嫁。
 私が挨拶すると二人ともそれに応える。それだけだ。会話はない。
 名古屋では上村家の子どもたちと一緒の生活だった。父の学友との友情、同じ信仰でつながっている教会での暮らしとの違いを思う。

 教会のすぐ上の敷地を購入して新しい建物の建設をしている。そこに2階建ての赤煉瓦の舘がある。日露戦争の陸軍の総司令官をつとめた大山巌の迎賓館だったという。戦災で焼けたのだが、焼け残った赤煉瓦の外郭はそのままに、内部に応急の2階を構築してあった。その中に、窓のない3畳間あった。そこで暮らしていいかと訊ねると、誰も住み手がいないから構わないとの返事。私はそこに入った。部屋の上に板張りの上床があり梯子もついている。布団をそこに上げると、住み心地は良かった。
 教会は木造2階建て、2階に神殿を設け60畳敷きの広間で祭儀が行われる。2階の端に別棟がある。会長一家専用の居住区画だ。で奥という。会長夫妻、長男夫妻、次男夫妻の居室、浴室、手洗い、炊事場が設けてある。
 
 本棟の階下にはまんなかに畳敷きの廊下、左右両側に8から10畳の部屋があり、住み込みの信者が入る。階下の建物に隣接して,廣い浴室、炊事場がある。

 教会には約30人の住み込み人がいる。毎朝、大きな握り飯を持って布教に出かける青年が2人いる。そこで連れてきた生活困窮者もいた。夫婦者、子どもと同居している夫婦、子ども連れの女、独身の若い男性、独身の女性などさまざまだ。建前は信者なのだが、生活にゆきづまって便宜的に教会に入り込んだ親子もいる。寝込んでいて起き上がれない病人もいる。
毎日働きに出る人もいるが、その収入が教会に入ることはないようだ。教会の雑用は住み込みの人の担当だ。

 一般信者の炊事場には,大きなかまどがあり、薪で飯を炊いたり、味噌汁をつくる。炊事場の横に風呂の焚き口がある。薪は住み込みの青年が調達してくる。
そうした人たちの中の中年の婦人3人が、炊事場で食事をつくる。米、野菜や魚は月並祭のお供えを使う。
 献立は飯、味噌汁、漬物、主菜は野菜の煮付け、たまにサバの味噌煮、鶏の唐揚げ、鰯の煮付けなどのどれかだ。時間に間に合わない人には、食器棚に置いておく。
 教会の食事は、私の口には合わない、まずいのだ。贅沢を言うのではないが、名古屋で3年間、食事に恵まれていたから。

 しかたないから、お金があるときは、近くに壮年の夫婦で揚げ物を売る小さな店へ行く。1個8円のコロッケだ。たまにそれを食事に加えると、なんとも言えない充足感があった。

 教会には朝夕2回、おつとめがある。朝勤めは午前7時、雄勤めは午後6時だ。
 おつとめは1番太鼓が30分前、2番太鼓が10分前、3番太鼓が5分前に打たれる。
 おつとめは神前にある拍子木、ちゃんぽん、太鼓、すりがねなどの楽器を使う。
 参拝者は全員でみかぐらうたを唱える。

    あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと

   ちよとはなしかみのいふこときいてくれ あしきのことはいはんでな
   このよのぢいとてんとをかたどりて ふうふをこしらへきたるでな
   これハこのよのはじめだし なむてんりわうのみこと
   あしきをはらうて たすけせきこむ いちれつすまして かんろだい

 このあと,参拝者は立って「よろづよ8首」かせ12くだりまでの1つをえらんでておどりをするばあいもある。

 私は幼いとき、母に伴われて天理に行き天理教越国大教会の詰め所で半年暮らしたから、祭儀のおつとめには習熟している。教理のお話も、子ども心によく聞いていたから、憶えている。

 毎月19日の月並祭には200人以上の信者で賑わう。教会は活気づいているのだ。部下となる教会も50を越え、大教会に昇格するのも間近と言われている。

  私はこうした教会のしきたりとは関係なく暮らした。夜遅くまで起きているから、朝は起きるのが遅い。朝飯は食いはずれる。夕食の時間にも食いはぐれる。夜更けに戻ると食器棚に置いてある。何度も残したままにしたら、いつしか食器棚へ置かなくなった。私は食事の予定から外されたのだ。無理もない。私はろくでなしの学生として札付きだ。
 手持ちの金がなくなっているとき、たまに食事の時間に顔を出すと、当然無視される。頭を何度も下げ、愛想良く食事が食べたいとお願いする。すると不機嫌な顔つきで、食事の乗った盆が差し出された。

 居室も食事も学生には,優遇措置をとってほしいと思ったが、それは単なる私の甘えだった。学生下宿は朝夕の2食付きで1畳1000円が相場だという。規定の下宿料を払えば、何の制約もない。だがそれには金が足りない。いやおうもなく教会の奇遇はやめられない。
 母は毎月3000円送ってくれる。夜なべをして稼いだ金だ。育英資金は毎月1800円支給される。これは生活費だ。週のうち、少なくとも4日は、好むと好まざるとにかかわらず、教会の食事を食べる。
 学徒援護会が斡旋してくれる仕事の日給は200円前後だ。月のうち10日はアルバイトで稼ぐ。
 そこで暮らし方を変える。たとえば19日の月並み祭の日は,早起きして朝食を食べ、おつとめに参加、祭典に参加される信者さんの世話をする。この日は昼食も悪くない。夕食もいつもより弾んだ飯にありつける。炊事の婦人に愛想良くすれば、お昼の握り飯ももらえた。学食で副食を注文してそれと一緒に食べた。
 教会の青年が教会の雑用を一緒にやろうとよってくると、笑顔で大學の時間割がつまっていて、教会の雑用のお手伝いができないと婉曲に断った。

 アルバイトにも取り組んだ。九段下から九段坂を上がり、田安門をくぐると旧近衛師団の兵舎が残っている。警察学校の校舎、学徒援護会、学生寮などに使われている。
 援護会の壁面に,作業内容を書いたチラシか数多く貼ってある。
 窓口でアルバイト仕事の斡旋票をもらい、東京駅前の丸ビルにある大日本精糖に行く。株主名簿の整理だ。すでに何人かの学生が作業していた。住所・氏名・生年月日、保有株数などを原簿と照合する。氏名は必ず原簿のとおり記入する。略字は認めない。1時間も取り組んでいると、目が痛くなった。
 突然、ベルが鳴った。室内の社員が廊下に出る。学生にも出るように指示された。
 「社長のお通りです。急いで」
 廊下の両側に人垣ができ、中央が空いている。何か気配がして、頭を下げる。
通路を数人が通る。先頭に一人の人物が見えた。新聞で見たことのある藤山愛一郎だ。
 人垣には目もくれないで、急ぎ足に通り過ぎた。こんなしきたりのある会社もあるのだとおもしろかった。
 朝9時から夕方5時まで1週間働いた。会計係は10パーセントの天引きはしてあるよと\1400をくれた。初めての体験だ。丸ビルの中にいるサラリーマンも楽ではないのだと感じた。

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ヒロ

柏木倉治の次男である柏木正幹は、東京都東大和市の東大和市第二中学校の第11代校長だった人でしょうか?それを最後に定年で辞任しておられるようですが。年齢が近いこと、東京にいたこと、氏名が同一であることから、同一人物ではないかと考えていますが確証が得られていません。ちなみに、私が小学校のときの校長先生なのです。
by ヒロ (2024-08-09 22:12) 

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