西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №132 [文芸美術の森]
シリーズ:江戸・洋風画の先駆者たち
~司馬江漢と亜欧堂田善~
美術ジャーナリスト 斎藤陽一
第1回
「司馬(しば)江漢(こうかん)」 その1
これからしばらくの間、鎖国体制下の江戸時代において、「洋風画」の先駆をなした二人の画家:司馬江漢(しばこうかん)と亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)について、その画業を紹介していきます。
≪司馬江漢と亜欧堂田善≫
先ずは、下図の年表をご覧ください。
江戸時代中期に生れた司馬江漢と亜欧堂田善はほとんど同世代ですが、江戸生れ江戸育ちの司馬江漢は、天明3年(1747年)37歳の時に、日本最初の「腐蝕銅版画」(エッチング)の制作に成功していました。
一方、東北の須賀川で生育した亜欧堂田善は、51歳頃に江戸に出て「銅版画」技術の習得を始めるという遅いスタートでしたが、「銅版画」の技術をより高度なものにしたのは田善でした。
二人の顔つきも見ておきましょう。(下図)
左図が「司馬江漢の肖像」。描いたのは、明治開化期に洋画を修得しようと苦闘した高橋由一。由一は、洋画の先駆者への敬愛をこめて、江漢の時代に描かれたデッサンをもとに油彩で描いています。
司馬江漢は、さまざまなことに関心をもち、新しいことに好奇心を燃やす多彩な才能の持ち主でしたが、生来の自己主張の強い性格ゆえに、やがて、それまで協力関係にあった蘭学者たちから指弾され、晩年は孤独な生活を送りました。
右図は「亜欧堂田善の肖像」。描いたのは田善の弟子・遠藤田一。
亜欧堂田善は、奥州・白河藩領内・須賀川の商人の息子でしたが、絵の才能を藩主・松平定信に見出され、その命によって江戸に出て「洋風画の研究」を始めました。50歳近い頃という遅い出発でした。
先ず、「司馬江漢の画業」を見ていきましょう。
≪司馬江漢:洋風画への道のり≫
江戸の芝・新銭座(現・浜松町あたり)に生れた司馬江漢は、生来、自負心と名誉欲の強い少年でしたが、絵を描くことが好きだったので、画家で身を立てることを志しました。
最初は狩野派に学んだようですが、十代の末に浮世絵師・鈴木春信の弟子になり、春信調の美人画を描きました。
やがて、中国・清朝の画家・沈南蘋(しんなんぴん)が日本にもたらした写実的な花鳥画(唐絵)に惹かれて、唐画風の絵を描くようになる。時には、浮世絵と唐画を融合したような「美人画」を描いたりしました。
その後、江漢30歳頃、蘭学者・博物学者の平賀源内に出会ったことにより、江戸において源内の指導で洋風画(「秋田蘭画」)の制作に精進していた秋田藩士・小田野直武と知り合います。これがきっかけで、司馬江漢の関心は「洋風画」に向かいました。
≪司馬江漢:日本初の腐蝕銅版画≫
江戸時代、「木版画」の技法はきわめて高度な水準にあり、それを駆使した「浮世絵」が人気を博していましたが、西洋絵画に強い関心を持つ司馬江漢は、オランダ書などに描かれている「銅版画」を自ら制作することに強い意欲を燃やしました。
そして天明3年(1783年)に、苦心の末に「日本初の銅版画」の制作に成功しました。
下図が、司馬江漢が制作した「日本初の腐蝕銅版画」(エッチング)の「三囲景」(みめぐりのけい)。三囲神社あたりの隅田川の風景を描いたものです。
江漢は、オランダ語に堪能な医師・大槻玄沢の助けを借りて、オランダ渡りの洋書の記載をたよりに、苦労しながら独自に「銅版画」の技法を編み出し、我が国初の「銅版画」制作に成功したのです。
さらに江漢は、銅版画の上に、筆で色彩を施し、画面を生き生きしたものとしました。
≪腐蝕銅版画(エッチング)の制作方法≫
ここで、「腐蝕銅版画」(エッチング)の制作方法を簡単におさえておきます。
まず銅板の面に、酸による腐食を防ぐ「防蝕剤」(グランド液)を塗る。次に、そのグランド液を乾かす。
そのあと、乾いたグランドに覆われた銅板の表面に、先の尖ったニードルで線刻するように絵を描いていく。
次は、絵の描かれた銅板を腐蝕液に浸し、引っ掻いた部分を腐蝕させる。この時、防蝕剤である「グランド」で覆われた部分は腐蝕しない。
そのあと、「グランド」を溶剤で洗い落とすと、銅板の凹凸が露わになる。つまり、ニードルで引っ掻いた部分は「窪み」(くぼみ)となって表われる。
今度は、その銅板の上に「インク」を塗る。(凹面に「インク」を詰める)
次に、版面を布などできれいに拭き、余分なインクを拭き取る。すると、凹面(線描部分)だけに「インク」が残る
その銅板の上に紙をのせたあと、プレス機に通すと、紙に線刻したところが印刷され、プリントは完了する。(上の2図)
機材の整った現代、エッチング技術は相当高度なものに進んでいますが、司馬江漢や亜欧堂田善らの時代には、オランド渡りの書物以外、何も無いところから手探りで技術を掴んでいったのです。
ところで、司馬江漢が制作した「銅版画」は、「反射式のぞき眼鏡」というレンズと鏡のついた器具で楽しむ、いわゆる「眼鏡絵」と呼ばれるものでした。
江漢は、この時期に制作した銅版による「風景画」5点を、下図の写真のような自作の「のぞき眼鏡」とセットで発売しました。
この「のぞき眼鏡」は、台の上に絵を水平に置き、45度に傾けた鏡とレンズでのぞき見するものなので、鑑賞する原画は左右逆にプリントする必要があった。それを鏡に写せば、本来の正しい風景となって見えるという仕掛けです。
当時、これをのぞき込んだ人は、強調された遠近法構図により、奥行き感のあるイリュージョンの世界を楽しんだことでしょう。
次回は、司馬江漢が制作した「銅版画」をいくつか紹介します。
(次号に続く)
2024-07-14 07:03
nice!(1)
コメント(0)
コメント 0