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浅草風土記 №30 [文芸美術の森]

浅草田原町 2

       作家・俳人  久保田万太郎

 しかし、その、商売のほうといっても、栄ちゃんは、若旦那としての取扱いをうけたのではなく、兵隊検査までは、奉公人のなかに入って、奉公人と同じ修行をさせられるのでした。寝るから起きるまで奉公人と一しょ。~ということは、夜、おくの人たちがひけ てから木綿蒲団にくるまって見世に寝て、朝は、おくの人たちより早く起きるのです。
三度の食事も外の奉公人と一しょに台所で食べるのでした。
 拭掃除は勿論のこと、糊入二枚、水引一本の候でも、栄ちゃんに云いつけるという風でした。
 で、たまには、無理な小言もいわれるのでしょうが、でも、・栄ちゃんは、素直にいまでも働いています。
 お父さんは仕方がないとしても、しかし、おっ母さんの方がよく、それで、黙っていると思います。-——おっ母さんの身になったら、素直にそう働かれれば働かれるほど、人情にからみはしないだろうかと思いますが…・
 でも、二十一の暁になると、栄ちゃんは、すぐに、また、以前のとおりの秘蔵っ子に返るのです。そうして兵隊がすむと、許嫁の娘さんと一しょになるのです。――その許嫁の娘さんというのは、やっぱり同じうちにいるのですが、しかしこのほうは、お嬢さまさまでおくに納まっています。月に一度や二度は芝居にでも行くらしく、よく、おっ母さんや女中たちと一しょに草で出かけるのをみかけます。
 たしか今年、栄ちゃんは二十になった筈です。――もう一年です。あともう一年で罪障が消滅します。
 見世の月日と奥の月日とが、別々に経って、やがてまた、一しょになるのです。――それにしても、その、許嫁の娘さんはどう思っているのだろうと思います。
 しかし角のつるやでは、そのうちに、もう、お雛さまをはじめて、じきにまた、五月人形をはじめましょう。
 盆提燈がすむと、すぐに今度はお会式の造花。――そういううちにも、断えず、月日はながれて行くので……。

        

 いまをさる十一年まえ。――明治四十五年の一月に、わたしは、こうしたものを「三田文学」に書いた。
 明治四十五年の一月というと、わたしのまだ慶應義塾にいた時分。「朝顔」という小説を、その半年前に、はじめて世の中へ出したあと、一つ二つの小説と戯曲を同じく「三田文学」と「スバル」に書いた ――とはいわない、書かせてもらった時分で、在りようは、この文章、そのころの作家のだれでもが試みた「幼き日」の回想の人真似をしたと云えば足りる。

        

 が、「幼き日」の回想といっても、これによって、わたしは、ありがたちの、正直な、おもいでの物語を書こうとはしなかった。――むしろ、生れた土地を語るための、それに都合のいい空想をいろいろ組合せたといったほうがいい。――いまにしてその十一年まえの心もちに潮ることは出来ないが、おそらくは、この、二倍、三倍ぐらいの長さのものを、わたしは「浅草田原町」という名目の下に書きつごうとしたに違いない。――同時に、わたしの疎懶(そらん)が、そのわたしの意図を裏切ったのに違いない。
 ありがちの、正直な、おもいでの物語でないしるしには、この文章、わたしというものがはっきり出ていない。わたしというものを、あたまで、よそにしている。いうならば、これを読んでも、肝心の、わたしというものが田原町のどこに住んでいたのかさえ分らない。

『浅草風土記』 中公文庫

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