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多摩のむかし道と伝説の旅 №128(30話) [ふるさと立川・多摩・武蔵]

多摩のむかし道と伝説の旅(№30)
−⼆ヶ領⽤⽔⽔辺の道を⾏く−

            原田環爾

 ⼆ヶ領⽤⽔の名は稲⽑領、川崎領の⼆ヶ領を流れることに由来する。今から約400年前の慶⻑2年(1597)徳川家康の命を受けた⼩泉次⼤夫が、農⺠の協⼒を得て10年6ヶ⽉の歳⽉を費やして開削した⼈⼯の⽤⽔路である。中野島(現多摩区菅稲⽥堤)で多摩川から取⽔され、稲⽑領(多摩区、⾼津区、中原区)から川崎領(中原区の⼀部、幸区、川崎区)へと流れる延⻑32kmの⽔路で、この開削によりこれらの地域の新⽥開発は⼤いに進み60ヶ村の耕地を潤した。まさに川崎のルーツとも⾔える⽔路である。現在の⼆ヶ領⽤⽔の⽔辺は親⽔護岸⼯事が施され、環境に⾒事に配慮された瀟洒な散策路となっている。

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 開削の経緯を詳しく述べる。戦国末の天正17年(1589)多摩川が⼤洪⽔で流路が⼤きく変わり、農⺠の⽣活は⾏き詰っていた。新⽥開発を急ぐ必要に迫られた家康は、平安末以来の代々⽔利⼟⽊技術を受け継ぐ⼩泉次⼤夫を六郷、稲⽑、川崎領の⽤⽔奉⾏として多摩川両岸の⽤⽔路開削に当らせた。慶⻑2年〜3年(1597〜98)にかけて稲⽑領、川崎領、世⽥⾕領、六郷領の四ヶ領の測量が⾏われ、慶⻑4年(1599)から六郷領を⽪切りに、3ヶ⽉後には川崎領と、多摩川を挟んで交互に両岸の開削⼯事が⾏われ、約10年6ヶ⽉の歳⽉を費やして慶⻑14年(1609)六郷⽤⽔と⼆ヶ領⽤⽔の本流が完成した。その後は各村への分⽔路が切り開かれ、すべてが完成したのは慶⻑16年(1611)、測量開始から14年の歳⽉をかけた⼤⼯事であった。その⼤⼯事の完成から20年後の寛永6年(1629)、次第に深刻化した末端の⽔量不⾜を補うため、関東郡代伊奈半⼗郎忠治の⼿代筧助兵衛は中野島⼝の下流3kmの宿河原に新たな取⽔⼝を開削した。宿河原に新設したのは、中野島の対岸に六郷⽤⽔の取⼊⼝があるため中野島⼝を広げることはできないこと、及び中野島の下流は伏流⽔により⽔量は回復するので宿河原で取⽔できることにあったという。この新たな⼆ヶ領⽤⽔は宿河原⽤⽔とも呼ばれ南武線の久地駅付近で本流に合流する。合流後の⼆ヶ領⽤⽔は更に東流し、津⽥⼭付近で分⽔され稲⽑・川崎領各地に配られた。現在は昭和16年建設の久地円筒分⽔で各所に分⽔されている。その分⽔路の⼀つに川崎堀がある。
 今回は⼆ヶ領⽤⽔を[1]中之島取⽔⼝から登⼾へ⼆ヶ領⽤⽔⽔辺の道、[Ⅱ]宿河原⽤⽔⽔辺の道、[Ⅲ]宿河原⽤⽔の本流合流点から川崎堀へ、と3 領域に分けて稲⽥堤から溝の⼝までの実踏経験を詳述する。

[Ⅰ]中野島取⽔⼝から登⼾へ⼆ヶ領⽤⽔⽔辺の道
 コース概略は次の通り。JR南武線稲⽥堤駅から多摩川縁へ出て中野島取⼊⼝へ向かう。取⼊⼝からは⼆ヶ領⽤⽔に沿って⽔辺を下り登⼾に⼊り、⼩泉橋まで来ると津久井道を経由して終着点の⼩⽥急線向ヶ丘遊園駅に⾄る。なお登⼾では近傍に⽣⽥緑地があり、その⻄の⼀⾓に枡形⼭と呼ぶ⼭がある。鎌倉時代の枡形城の城跡で、秩⽗平⽒末の稲⽑三郎重成の居城があった所だ。今回は終盤の寄り道として枡形城址を訪ねた後向ヶ丘遊園駅
へ向かうものとする。

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 JR南武線稲⽥堤駅を降り線路沿いの道を東へ進む。すぐ次の踏切から来る道で左へ曲がり多摩川へ向かう街路に⼊る。この辺りは菅稲⽥堤といい、沿道には梨園が点在する。菅、中野島、⽣⽥辺りは昔から多摩川梨の産地として知られ、特に⼤正時代以降盛んになったという。そのため梨もぎ取り園も多く⾒られる。ほどなく多摩川の堤防にぶつかる。堤防に上がると堤は多摩沿線道路という⾞道で、その向こうには広々とした多摩川が広がる。頭を右側に巡らせば多摩川の流れをせき⽌める巨⼤な⼆ヶ領上河原堰堤が⽬に⼊る。また堤防外側下にはつい最近まで1-3.jpg川崎⽔道局の施設が広がり、円柱形の古びたコンクリート建造物が印象的だったが今はない。⾞道を渡り⼆ヶ領上河原堰堤に向かって堤防の縁を進むと、傾斜⾯に稲⽥堤の桜の歴史を記したガイド板が⽴っている。ここはかつて稲⽥堤と称し桜の名所として知られた所だ。
 ガイド板によれば、稲⽥堤の桜は⽇清戦争の勝利を記念して明治31年に菅村の⼈々によって中野島から⽮野⼝境にかけて250本の桜が植えられたことによる。桜は⾒事な桜並⽊となり、昭和の初期には東京近郊の花⾒の名所になり賑わったという。作曲家の古賀政男は稲⽥堤で遊んだ印象から名曲「丘を越えて」のメロディーを作曲したという。残念なことに昭和43年、多摩沿線道路の拡幅⼯事で桜は切り払われてしまい今は全くその⾯影はないとのことである。
1-4.jpg ガイド板の傍らの⼩道を下って河原に降りると、そこが⼆ヶ領⽤⽔の中野島取⼊⼝になっている。すぐ下流の堰堤で堰き⽌められた多摩川の⽔がここから⼆ヶ領⽤⽔となって流れ出ている。この先⼆ヶ領⽤⽔の右岸に沿って進む。200mも進めば珍しい現象に出会う。南⻄⽅向から流れ下ってきた三沢川と交差しているのだ。三沢川は川崎市⿇⽣区⿊川を源流とする川で、この交差点の橋上から眺めて200mばかり下った所で多摩川に注ぎ込んでいる。丁度先の⼆ヶ領上河原堰堤のすぐ下流付近だ。川の交差とは奇妙なことだが、サイフォンの原理で⼆ヶ領⽤⽔が三沢川の下をくぐっているのだ。
1-5.jpg 因みに初めて⼆ヶ領⽤⽔と三沢川との交差を⾒た時不思議な思いにかられた。⼈⼯の⽔路である⼆ヶ領⽤⽔をなぜわざわざ三沢川と交差するという⾯倒な⽅法をとったのか。取⼊⼝をほんの少し下流にもって⾏けば交差は回避できたのにと・・・。しかし調べてゆくうちに事情は理解できた。三沢川は元はここを流れておらず、ここよりずっと南側を東流し、ここより下流で⼆ヶ領⽤⽔に合流しているのだ。ところが川幅が狭くたびたび氾濫することからいち早く多摩川へ流す改修⼯事が必要となり、昭和16年(1942)から戦後にかけて、⼩沢城址北麓の菅城下で新⽔路が設けられ流路変更が⾏われたのだ。流路変更した新三沢川は当初は⼆ヶ領⽤⽔の下をくぐらせていたというが、なお不都合で後に⼆ヶ領⽤⽔を三沢川の下をくぐらせるようになったという。なお菅城下から下流のかつての三沢川は旧三沢川と呼ばれ、今もその流れはある。(つづく)


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