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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №131 [文芸美術の森]

                        明治開化の浮世絵師 小林清親
                                美術ジャーナリスト 斎藤陽一

                                           第14回 
                  ≪「東京名所図」シリーズから:雪の情景≫

 前回に続いて、小林清親が描いた「雪の情景」をひとつ紹介します。

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 これは、小林清親が明治9年(29歳)に制作した「開運橋 第一銀行雪中」

 ここは、現在で言うと日本橋兜町界隈。橋の下を流れる川は紅葉川と言い、もともとここには「海賊橋」という木の橋が架けられていたのですが、明治8年に石造りの橋に架け替えられて「開運橋」という名前の橋に生まれ変わりました。(現在、川は埋め立てられて道路となり、この橋も存在しません。)

 絵の中で、ひときわ目立つ和洋折衷の建物は、明治5年に竣工した第一国立銀行。「擬洋風建築」と呼ばれるこの様式の建物は、開化期に盛んに建てられました。(現在、ここには、第一銀行の後裔である「みずほ銀行」が立っています。)

132-2.jpg このモダンな建物は、人々の注目を集めて東京の新名所となり、当時の「開化絵」にもしばしば描かれましたが、そのほとんどは、青空にそびえたつ晴れやかな洋風建築として表されています。

 しかし、小林清親は、これを、雪の降る日のどんよりとした空を背景に描くことによって、カラフルな洋風建築の姿を際立たせています。
 当時の写真と比べると、清親が、いかにしたら「絵画的な風景」に仕立られるかを考えて、このような構想にしたことが推察できます。

 画面中央、和傘をさし、後ろ姿を見せている赤い帯の着物の女が、この雪景色の中の鮮やかなアクセントとなっている。これは、洋風建築の「明治」に対する「江戸」、という新旧の対比を意識したものでもあるでしょう。

132-3.jpg この女性がさしている傘には、「銀座」「岸田」という文字が書かれている。これは、銀座で、「精錡

水」なる「目薬」で有名な「楽善堂」という店を構えている岸田吟香を指しています。
 岸田吟香は旧幕臣。「東京日日新聞」の記者をしたあと、家業の「楽善堂」の経営に精出していました。吟香の息子が、のちに画家となった岸田劉生です。
 小林清親は、岸田吟香と知り合いでしたので、この絵は、楽善堂の宣伝広告の意味合いもあるのかも知れません。

 それにしても、雪道にたたずんで、洋風建築を眺めている女性の後ろ姿が、この絵に、格別の情感をもたらしていますね。現代の私たちもまた、しんしんと雪が降るこの絵を見るとき、何とも言えない郷愁を感じます。

 昭和6年、俳人・中村草田男は、のちによく知られる句を詠みました。

   降る雪や 明治は遠くなりにけり   中村草田男

 清親の絵を見ると、この句がしみじみと思い起こされます。

≪両国大火と「東京名所図」終了≫

 明治14年1月26日未明、神田松が枝町から出火した火は、東神田一帯を焼き尽くした後、火の手は隅田川を飛び越えて、本所、深川という両国界隈へと延焼、16時間も燃え続き、1万数千戸が焼失しました。「両国大火」と呼ばれる火事です。

 火災が発生するや、小林清親は、写生帖を手に家を飛び出し、終日、火のあとを追って写生をし続けた。その間に、清親の家も焼けてしまいました。
 自宅焼失という災難にもめげず、清親は、写生をもとに「両国大火」の様相を3枚の木版画に仕上げ、発表。速報写真もなかった当時、これらは爆発的な売れ行きを示したと言います。(下図がそれらの木版画)

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 ところが、これを境に、小林清親は、せっかく開拓した新しい「東京名所図」シリーズの制作をやめてしまうのです。明治14年、清親34歳のときでした。

≪清親画の転換≫

 代わりに清親は、「ポンチ絵」と称する戯画、時局もの、風刺画、戦争画などをつぎつぎと描くようになります。(下図参照)

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 これは、異様な転換ですが、その理由や原因は定かではありません。

 さらに、明治17年から18年にかけて、新しい版元・小林鉄次郎の注文により、歌川広重の「名所江戸百景」シリーズを意識した連作「武蔵百景」を制作しますが、あまりにも広重の作風に倣い過ぎて、全体として「江戸懐古調」のおもむきとなり、清親の独自性はあまり見られず、世間の評判とはなりませんでした。そのせいか、34点で制作は中止されてしまいました。(下図参照)

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≪明治の終焉、浮世絵の終焉≫

 明治45年7月30日には明治天皇が崩御、明治時代は終わりました。

 江戸時代から明治開化期に生き延びてきた浮世絵は、新時代に適合すべく、「開化絵」「報道絵」などで延命を図りましたが、やがて、時代が進むとともに発達してきた印刷技術や写真技術によって、決定的な打撃を受けました。
 小林清親が得意とした「名所絵」も、写真技術の向上によって急速に盛んとなった「絵葉書」の流行に取って代わられてしまいます。
 「浮世絵」(錦絵)の需要は無くなり、版元も壊滅状態となって、明治の終焉と共に、浮世絵もその終焉を迎えたのでした。

 大正4年11月28日、小林清親は、東京・滝野川・中里の自宅で、68年の生涯を閉じました。
 その前半生は、幕末の動乱に翻弄され、代々続いた幕臣の家禄を失い、困窮します。
 絵師になってからの後半生は、江戸の面影を残しながらも新しい街に変わっていく東京の様相を、光と影の対比の中にとらえた風景版画で人気を得たものの、浮世絵自体の衰退に向き合わなければなりませんでした。
 まことに小林清親は「開化の絵師」であり、「明治最後の浮世絵師」の名にふさわしい画家だったと言えましょう。

 これまで、≪西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」≫と題した連載の中で、第35回の「葛飾北斎」をトップバッターに、歌川広重、喜多川歌麿、鈴木春信、東洲斎写楽、歌川国芳、小林清親という絵師たちを取り上げて、「浮世絵の魅力」を紹介してきましたが、これで「浮世絵」シリーズは終了とします。

 ≪西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」≫、次は、鎖国体制下の江戸時代に、さまざまな苦心を重ねながら、銅版画や油彩画などの「洋風画」に取り組んだ二人の先駆者、司馬江漢と亜欧堂田善の画業を紹介します。

(シリーズ「浮世絵の魅力」 終)


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