武蔵野 №9 [文芸美術の森]
武蔵野 9
作家 国木田独歩
九
作家 国木田独歩
九
かならずしも道玄坂(どうげんざか)といわず、また白金(しろがね)といわず、つまり東京市街の一端、あるいは甲州街道となり、あるいは青梅道(おうめみち)となり、あるいは中原道(なかはらみち)となり、あるいは世田ヶ谷街道となりて、郊外の林地りんち田圃(でんぽ)に突入する処の、市街ともつかず宿駅(しゅくえき)ともつかず、一種の生活と一種の自然とを配合して一種の光景を呈(てい)しおる場処を描写することが、すこぶる自分の詩興を喚よび起こすも妙ではないか。なぜかような場処が我らの感を惹(ひ)くだらうか[#「だらうか」はママ]。自分は一言にして答えることができる。すなわちこのような町外(まちはずれ)の光景は何となく人をして社会というものの縮図でも見るような思いをなさしむるからであろう。言葉を換えていえば、田舎(いなか)の人にも都会の人にも感興を起こさしむるような物語、小さな物語、しかも哀れの深い物語、あるいは抱腹ほうふくするような物語が二つ三つそこらの軒先に隠れていそうに思われるからであろう。さらにその特点とくてんをいえば、大都会の生活の名残(なごり)と田舎の生活の余波(よは)とがここで落ちあって、緩ゆるやかにうずを巻いているようにも思われる。
見たまえ、そこに片眼の犬が蹲うずくまっている。この犬の名の通っているかぎりがすなわちこの町外(まちはずれ)の領分である。
見たまえ、そこに小さな料理屋がある。泣くのとも笑うのとも分からぬ声を振立ててわめく女の影法師が障子(しょうじ)に映っている。外は夕闇がこめて、煙の臭(にお)いとも土の臭いともわかちがたき香りが淀(よど)んでいる。大八車が二台三台と続いて通る、その空車(からぐるま)の轍(わだち)の響が喧(やかま)しく起こりては絶え、絶えては起こりしている。
見たまえ、鍛冶工(かじや)の前に二頭の駄馬が立っているその黒い影の横のほうで二三人の男が何事をかひそひそと話しあっているのを。鉄蹄(てってい)の真赤になったのが鉄砧(かなしき)の上に置かれ、火花が夕闇を破って往来の中ほどまで飛んだ。話していた人々がどっと何事をか笑った。月が家並(やなみ)の後ろの高い樫かしの梢まで昇ると、向う片側の家根が白(しろ)んできた。
かんてらから黒い油煙ゆえんが立っている、その間を村の者町の者十数人駈け廻わってわめいている。いろいろの野菜が彼方此方に積んで並べてある。これが小さな野菜市、小さな糶売場(せりば)である。
日が暮れるとすぐ寝てしまう家(うち)があるかと思うと夜(よ)の二時ごろまで店の障子に火影(ほかげ)を映している家がある。理髪所(とこや)の裏が百姓家(や)で、牛のうなる声が往来まで聞こえる、酒屋の隣家となりが納豆売(なっとううり)の老爺の住家で、毎朝早く納豆(なっとう)納豆と嗄声(しわがれごえ)で呼んで都のほうへ向かって出かける。夏の短夜が間もなく明けると、もう荷車が通りはじめる。ごろごろがたがた絶え間がない。九時十時となると、蝉せみが往来から見える高い梢で鳴きだす、だんだん暑くなる。砂埃(すなぼこり)が馬の蹄ひづめ、車の轍わだちに煽あおられて虚空こくうに舞い上がる。蝿はえの群が往来を横ぎって家から家、馬から馬へ飛んであるく。
それでも十二時のどんがかすかに聞こえて、どことなく都の空のかなたで汽笛の響がする。(完)
2024-06-28 13:15
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