西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №130 [文芸美術の森]
明治開化の浮世絵師 小林清親
美術ジャーナリスト 斎藤陽一
第13回
≪「東京名所図」シリーズから:雪の情景≫
美術ジャーナリスト 斎藤陽一
第13回
≪「東京名所図」シリーズから:雪の情景≫
小林清親は、「東京名所図」シリーズの中で、雨の日の風景とともに、「雪の日の光景」を好んで描いています。
今回は、そのような「雪の情景」を描いた作品を紹介します。
≪降る雪や≫
これは小林清親が明治12年(32歳)に制作した「駿河町雪」。
駿河町は、現在の中央区、室町1丁目、2丁目にあたるところ。道の両側にある黒っぽい壁の堂々たる商家は、豪商「三井越後屋」。
その奥にそびえる擬洋風建築は、明治7年に建てられた「三井組為替バンク」、すなわち「三井銀行」です。
その奥にそびえる擬洋風建築は、明治7年に建てられた「三井組為替バンク」、すなわち「三井銀行」です。
駿河町の三井越後屋のあるこの場所は、富士山と江戸城とを同時に見渡せる場所として、江戸時代の浮世絵にはたびたび描かれてきました。
例をあげれば:
例をあげれば:
下図右は、葛飾北斎が描いた連作「富嶽三十六景」中の「駿河町」。
駿河町の通りの賑わいを切り落とし、三井越後屋の屋根を下から見上げるような大胆な視角とデフォルメにより、堂々たる大屋根を強調、そこに、江戸城越しの富士山を配している。これに、大屋根の上で生き生きと働く瓦職人たちの動きと大空に舞う凧の動きを加えて、江戸の繁栄を晴れやかに表現しています。
駿河町の通りの賑わいを切り落とし、三井越後屋の屋根を下から見上げるような大胆な視角とデフォルメにより、堂々たる大屋根を強調、そこに、江戸城越しの富士山を配している。これに、大屋根の上で生き生きと働く瓦職人たちの動きと大空に舞う凧の動きを加えて、江戸の繁栄を晴れやかに表現しています。
下図左は、歌川広重の連作「名所江戸百景」中の「駿河町」。
通りの両側に屋根を連ねる豪商・三井越後屋の建物を鳥の目視点と遠近法で構成し、奥へと視線が導かれる先に雪をいただいて屹立する霊峰富士を描いて、こちらも、町の賑わいを活写しています。
通りの両側に屋根を連ねる豪商・三井越後屋の建物を鳥の目視点と遠近法で構成し、奥へと視線が導かれる先に雪をいただいて屹立する霊峰富士を描いて、こちらも、町の賑わいを活写しています。
これに対して小林清親は、江戸の浮世絵師がこの場所を描くときの定番だった「富士山」は描かず、地に足のついた散策者が駿河町の街角をながめるという「生活者の眼差し」でとらえています。
雪道を歩く人影も描かれますが、何よりもこの絵から感じられるのは、冷たい寒気と静けさともいうべき情感です。
清親が、定番を打ち破り、駿河町を「雪の情景」として描いたことが、このような味わいをもたらしています。
清親はまた、越後屋の豪壮な商家の建物と、三井銀行のモダンな洋風建築という「和」と「洋」を対比させることによって、いかにも明治らしい雰囲気を生み出している。さりげなく配された「ガス燈」や「人力車」も、明治開化期を象徴するものです。
雪道を歩く人影も描かれますが、何よりもこの絵から感じられるのは、冷たい寒気と静けさともいうべき情感です。
清親が、定番を打ち破り、駿河町を「雪の情景」として描いたことが、このような味わいをもたらしています。
清親はまた、越後屋の豪壮な商家の建物と、三井銀行のモダンな洋風建築という「和」と「洋」を対比させることによって、いかにも明治らしい雰囲気を生み出している。さりげなく配された「ガス燈」や「人力車」も、明治開化期を象徴するものです。
これらのものが、雪の「白」を基調とした落ち着いた色調の中で、どれも違和感なく、絵の中で調和し合っている。
明治18年生れの詩人・劇作家 木下杢太郎も、永井荷風と同様、小林清親の風景版画の愛好者でした。
木下杢太郎が、清親のこの「駿河町雪」について書いている1節を紹介します:
「(東京名所図の中で)最も優れたものは『駿河町雪』といふ題のものである。これは『ゑちごや』の紺暖簾をかけた店から雪の小路を眺めたところで、おそらく、旧の東京下町の、殊に濃艶なる雪旦の光景が、これほど好く再現せられたるは他にあるまいと思ふ。・・・
概して昔の東京の市街は、雪旦(雪の朝)、雪宵が最も美しく、清親の板画も雪の日を描くものが最も好い。」(木下杢太郎『小林清親の板画』大正14年)
概して昔の東京の市街は、雪旦(雪の朝)、雪宵が最も美しく、清親の板画も雪の日を描くものが最も好い。」(木下杢太郎『小林清親の板画』大正14年)
もうひとつ、小林清親描く「雪の情景」を紹介します。
下図は、清親が明治10年(30歳)に制作した「両国雪中」。
ここは両国橋西詰めの「両国広小路」。
明暦3年(1657年)、江戸の町を焼き尽くした「明暦の大火」をきっかけに、江戸市中には防火用の空き地である「火除け地」が設けられましたが、この「両国広小路」もそのひとつ。江戸時代、ここには、見世物小屋などが立ち並び、賑わいを見せていた。
下図は、清親が明治10年(30歳)に制作した「両国雪中」。
明暦3年(1657年)、江戸の町を焼き尽くした「明暦の大火」をきっかけに、江戸市中には防火用の空き地である「火除け地」が設けられましたが、この「両国広小路」もそのひとつ。江戸時代、ここには、見世物小屋などが立ち並び、賑わいを見せていた。
この絵の中にも、雪の中、たくさんの人々が往来している。しかし、その動きはスローモーションのような感じで、皆、押し黙って歩いている。音は、雪に吸い取られてしまったかのよう。
番傘に着物姿の人たちは、江戸の情緒を感じさせるが、人力車や電柱などは文明開化がもたらしたもの。しかしどれもが、雪景色の中にしっくりと溶け込んでいる。
番傘に着物姿の人たちは、江戸の情緒を感じさせるが、人力車や電柱などは文明開化がもたらしたもの。しかしどれもが、雪景色の中にしっくりと溶け込んでいる。
ちなみに、右手の商家が掲げた看板に「五臓園」という文字が見えますが、これは、この店が売り出した漢方滋養剤とのことで、現在も販売が続いているそうです。
この絵もまた、「散策者の視点」で描かれています。
漢方薬の店のあるあたりが「米沢町」、絵の左手は「吉川町」になりますが、実は、小林清親を起用して「光線画」シリーズを制作させた版元・松木平吉の店(絵草紙屋)は、左手の「吉川町」にありました。とすれば、この視点はまた「版元の店先」から見えた光景かもしれません。
漢方薬の店のあるあたりが「米沢町」、絵の左手は「吉川町」になりますが、実は、小林清親を起用して「光線画」シリーズを制作させた版元・松木平吉の店(絵草紙屋)は、左手の「吉川町」にありました。とすれば、この視点はまた「版元の店先」から見えた光景かもしれません。
次回はまた、小林清親が描いた連作「東京名所図」から、「雪の日の情景」を紹介します。
(次号に続く)
(次号に続く)
2024-06-14 15:27
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