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浅草風土記 №28(「27」差し替え) [文芸美術の森]

浅草田原町 2

         作家  久保田万太郎


 公園の浪花踊という見世もの、坂東なにがしという女役者の座頭のうちがありましたか、しき越して行ってしまいました。始終表の戸を閉めて簾をかけていました。あれでは随分暗いだろうという近所の評判でしたが、なかで、ときどき、立廻りの稽古なんかをしていたそうです。いまでは、そのあとに.女髪結が越して来ましたが、夏になると、二階に蚊帳を釣って、燈火をつけて、毎晩のように花を引いています.冬ばもやっているのかも知れませんか、戸を閉めてしまうから分かりません。一度手の入ったことかありましたか、相変らずやってるようです。――活動写真の弁士といったような男や、髪だけ芸者のように結った公園あたりの女か、始終出入をします。
 風の加減で、どうかすると、公園の楽隊の音がときどき、通りを一つ越して、その辺りで途切れ途切れに聞えて来ます。
 銀行もなければ、会社もなければ、役所もなければ、病院もありません。お寺もその居廻りにはありません。去年、市立の大きな学校が二丁目の中ほどに出来たので、建具屋と石屋の間に学按用品を売る見世が二三軒出来ました。学校の表の煉瓦塀と植込んだ桐の木が見えるようになっててから、横町の気合は幾分連違ってきましたか、でも、まだ、質屋の土蔵の壁がやっぱり占目につきます。
 前に書くのを忘 れましたか、三丁目の大通りの角につるやという大きな際物屋(きわものや)があります。春、凧と羽子板がすむと、すぐお雛さまにかかり、それかすむと五月人形にかかります。夏の盆提灯や廻り燈龍がすむと、すぐ御会式(おえしき)の造花にかかります。また、霜月になって、凧と羽子板の仕度にかかります。そつのない商売です。――こうしてみるち、一年という月日が目に見えて早く立ちます。
 わたしは、遡って、古い話をしようというつもりはありません。いまいった小川だの真間だのという代用学校、五六年まえまでは、かなりに繁昌していました。外にも、近所に青雲というのと、野間というのとがありましたが、やっぱりそれぞれに繫昌していました。――しかし小川し」いうと、なかでも一番古く、一番面倒かいいというので、どこよりも流行りました。
 とにかくその時分、公立の、正目(しょうめ)の正しい学匠といえば馬遠まで行かなければならなかったのです。――しかし馬遠というと、雷門のさきで、道程にしてざっと十丁ほどあります。そのあたりからでは一寸億劫です。――それに、その界隈の親たちにすると、両方のけじめか全く分らす、近所にあるものを、何も、遠くまで通わせるものはないという具合で、大抵どこのうちでも、子供をこの小川に通わせました。――だからその居廻りうちの、いまの若い主人は、そろって皆小川学校の出身です。なかには、途中でそこをよして、高等科くらいから馬道の学校に移るような向きも後になっては出来ましたか、しかしそうすると、下の級に入れられて、一年損をしなければなりませんでした。それに、代用の気の置けないところが、通う当人より親たちの気に入っていたもので、そのわりに転校は流行りませんでした.
 その間(かん)で、わたしは、はじめから小川の厄介にならず馬道の学校に入りましたか.何かあるたびにありようは、代用のみるから自由らしいところを羨ましいと思いました。そのくせ市立と私立と、国音相通ずるところが気に入らなかったのですが、うちへ帰ると、友だちは、みんな、小川へ行っているものばかりです。ときによると肩身のせまいことがありました。
 その小川学校、まえにもいったように、古着屋ばかり並んだ通りの真中にあって、筋向うには大きな魚屋かありました。半分立腐れになった二階家をそのまま学校にしたものです。通りに向って窓には目かくしがしてありました。二階が高等科で階下が尋常科になっているのだと聞いて、どんな具合になっているのかと思いましたが、あるとき、幻燈会のあると誘われて行ったとき、はじめて中に入ってみて驚きましたし 黒板が背中合せにかかっていて、一面に汚い机が並んでいるきりでした。二階にあがると、階下と同じ机が、ただ四側に並んでいるだけでした。――これが順に、一年、二年、三年、四年にっているのだと一しょにつれて行ってくれた友たちが教えてくれました。
 が、わたしには、どうしてこれで、それぞれの稽古か出来るだろうと、納得が出来ませんでした。

『浅草風土記』 中公文庫



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