SSブログ

郷愁の詩人与謝蕪村 №31 [ことだま五七五]

冬の部 3
       詩人  萩原朔太郎


葱(ねぎ)買(こ)うて枯木の中を帰りけり

 枯木の中を通りながら、郊外の家へ帰って行く人。そこには葱の煮える生活がある。貧苦、借金、女房、子供、小さな借家。冬空に凍(こご)える壁、洋燈、寂しい人生。しかしまた何という沁々とした人生だろう。古く、懐かしく、物の臭においの染しみこんだ家。赤い火の燃える炉辺(ろへん)。台所に働く妻。父の帰りを待つ子供。そして葱の煮える生活!
  この句の語る一つの詩情は、こうした人間生活の「侘び」を高調している。それは人生を悲しく寂しみながら、同時にまた懐かしく愛しているのである。芭蕉の俳句にも「侘び」がある。だが蕪村のポエジイするものは、一層人間生活の中に直接実感した侘びであり、特にこの句の如きはその代表的な名句である。

易水(えきすい)に根深(ねぶか)流るる寒さ哉(かな)

 「根深」は葱の異名。「易水」は支那の河の名前で、例の「風蕭々(しょうしょう)として易水寒し。壮士一度去ってまた帰らず。」の易水である。しかし作者の意味では、そうした故事や固有名詞と関係なく、単にこの易水という文字の白く寒々とした感じを取って、冬の川の表象に利用したまでであろう。後にも例解する如く、蕪村は支那の故事や漢語を取って、原意と全く無関係に、自己流の詩的技巧で駆使している。
 この句の詩情しているものは、やはり前の「葱(ねぎ)買(こ)うて」と同じである。即ち冬の寒い日に、葱などの流れている裏町の小川を表象して、そこに人生の沁々(しみじみ)とした侘びを感じているのである。一般に詩や俳句の目的は、或る自然の風物情景(対象)を叙することによって、作者の主観する人生観(侘び、詩情)を咏嘆(えいたん)することにある。単に対象を観照して、客観的に描写するというだけでは詩にならない。つまり言えば、その心に「詩」を所有している真の詩人が、対象を客観的に叙景する時にのみ、初めて俳句や歌が出来るのである。それ故にまた、すべての純粋の詩は、本質的に皆「抒情詩」に属するのである。

蕭条(しょうじょう)として石に日の入る枯野(かれの)哉(かな)

 句の景象しているものは明白である。正岡子規(まさおかしき)らのいわゆる根岸派(ねぎしは)の俳人らは、蕪村のこうした句を「印象明白」と呼んで喝采(かっさい)したが、蕪村の句には、実際景象の実相を巧みに捉とらえて、絵画的直接法で書いたものが多い。例えば同じ冬の句で

 寒月かんげつや鋸岩(のこぎりいわ)のあからさま
 木枯しや鐘に小石を吹きあてる

 など、すべていわゆる「印象明白」の句の代表である。そのため非難するものは、蕪村の句が絵画的描写に走って、芭蕉のような渋い心境の幽玄さがなく、味が薄く食い足りないと言うのである。しかし「印象明白」ばかりが、必ずしも蕪村の全般的特色ではなく、他にもっと深奥(しんおう)な詩情の本質していることを、根岸派俳人の定評以来、人々が忘れていることを責めねばならない。

nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。