武蔵野 №7 [文芸美術の森]
武蔵野 7
作家 国木田独歩
作家 国木田独歩
七
自分といっしょに小金井の堤を散歩した朋友は、今は判官になって地方に行っているが、自分の前号の文を読んで次のごとくに書いて送ってきた。自分は便利のためにこれをここに引用する必要を感ずる――武蔵野は俗にいう関(かん)八州の平野でもない。また道灌(どうかん)が傘(かさ)の代りに山吹(やまぶき)の花を貰ったという歴史的の原でもない。僕は自分で限界を定めた一種の武蔵野を有している。その限界はあたかも国境または村境が山や河や、あるいは古跡や、いろいろのもので、定めらるるようにおのずから定められたもので、その定めは次のいろいろの考えから来る。
僕の武蔵野の範囲の中には東京がある。しかしこれはむろん省(はぶ)かなくてはならぬ、なぜならば我々は農商務省の官衙(かんが)が巍峨(ぎがとして聳(そび)えていたり、鉄管事件(てっかんじけん)の裁判があったりする八百八街によって昔の面影を想像するこ)とができない。それに僕が近ごろ知合いになったドイツ婦人の評に、東京は「新しい都」ということがあって、今日の光景ではたとえ徳川の江戸であったにしろ、この評語を適当と考えられる筋もある。このようなわけで東京はかならず武蔵野から抹殺(まっさつ)せねばならぬ。
しかしその市の尽(つ)くる処、すなわち町外はずれはかならず抹殺してはならぬ。僕が考えには武蔵野の詩趣を描くにはかならずこの町外はずれを一の題目(だいもく)とせねばならぬと思う。たとえば君が住まわれた渋谷の道玄坂(どうげんざか)の近傍、目黒の行人坂(ぎょうにんざか)、また君と僕と散歩したことの多い早稲田の鬼子母神(きしもじ)あたりの町、新宿、白金……
また武蔵野の味(あじ)を知るにはその野から富士山、秩父山脈国府台(こうのだい)等を眺めた考えのみでなく、またその中央に包(つつ)まれている首府東京をふり顧(かえ)った考えで眺めねばならぬ。そこで三里五里の外に出で平原を描くことの必要がある。君の一篇にも生活と自然とが密接しているということがあり、また時々いろいろなものに出あうおもしろ味が描いてあるが、いかにもさようだ。僕はかつてこういうことがある、家弟をつれて多摩川のほうへ遠足したときに、一二里行き、また半里行きて家並(やなみ)があり、また家並に離れ、また家並に出て、人や動物に接し、また草木ばかりになる、この変化のあるのでところどころに生活を点綴(てんて)している趣味のおもしろいことを感じて話したことがあった。この趣味を描くために武蔵野に散在せる駅、駅といかぬまでも家並、すなわち製図家の熟語でいう聯檐家屋(れんたんかおく)を描写するの必要がある。
また多摩川はどうしても武蔵野の範囲に入れなければならぬ。六つ玉川などと我々の先祖が名づけたことがあるが武蔵の多摩川のような川が、ほかにどこにあるか。その川が平らな田と低い林とに連接する処の趣味は、あだかも首府が郊外と連接する処の趣味とともに無限の意義がある。
また東のほうの平面を考えられよ。これはあまりに開けて水田が多くて地平線がすこし低いゆえ、除外せられそうなれどやはり武蔵野に相違ない。亀井戸(かめいど)の金糸堀(きんしぼり)のあたりから木下川辺きねがわへんへかけて、水田と立木と茅屋(ぼうおく)とが趣をなしているぐあいは武蔵野の一領分(いちりょうぶん)である。ことに富士でわかる。富士を高く見せてあだかも我々が逗子(ずし)の「あぶずり」で眺むるように見せるのはこの辺にかぎる。また筑波(つくば)でわかる。筑波の影が低く遥はるかなるを見ると我々は関(かん)八州の一隅に武蔵野が呼吸している意味を感ずる。
しかし東京の南北にかけては武蔵野の領分がはなはだせまい。ほとんどないといってもよい。これは地勢(ちせい)のしからしむるところで、かつ鉄道が通じているので、すなわち「東京」がこの線路によって武蔵野を貫いて直接に他の範囲と連接しているからである。僕はどうもそう感じる。
そこで僕は武蔵野はまず雑司谷(ぞうしがや)から起こって線を引いてみると、それから板橋の中仙道の西側を通って川越近傍まで達し、君の一編に示された入間郡を包んで円(まる)く甲武線の立川駅に来る。この範囲の間に所沢、田無などいう駅がどんなに趣味が多いか……ことに夏の緑の深いころは。さて立川からは多摩川を限界として上丸辺まで下る。八王子はけっして武蔵野には入れられない。そして丸子(まるこ(から下目黒(しもめぐろ)に返る。この範囲の間に布田、登戸、二子などのどんなに趣味が多いか。以上は西半面。
東の半面は亀井戸辺より小松川へかけ木下川から堀切を包んで千住近傍へ到って止まる。この範囲は異論があれば取除いてもよい。しかし一種の趣味があって武蔵野に相違ないことは前に申したとおりである――
2024-05-30 10:53
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