郷愁の詩人与謝蕪村 №30 [ことだま五七五]
冬の部 2
詩人 萩原朔太郎
詩人 萩原朔太郎
日の光今朝や鰯(いわし)の頭より
正月元旦の句である。古来難解の句と称されているが、この句のイメージが表象している出所は、明らかに大阪のいろは骨牌(ガルタ)であると思う。東京のいろは骨牌では、イが「犬も歩けば棒にあたる」であるが、大阪の方では「鰯の頭も信心から」で、絵札には魚の骨から金色の後光(ごこう)がさし、人々のそれを拝んでいる様が描いてある。筆者の私も子供の時、大阪の親戚(旧家の商店)で見たのを記憶している。或る元日の朝、蕪村はその幼時の骨牌を追懐し、これを初日出のイメージに聯結(れんけつ)させたのである。この句に主題されている詩境もまた、前の藪入の句と同じく、遠い昔の幼い日への、侘しく懐かしい追憶であり、母のふところを恋うる郷愁の子守唄である。蕪村への理解の道は、こうした子守唄のもつリリカルなポエジイを、読者が自ら所有するか否かにのみかかっている。
飛弾山(ひだやま)の質屋(しちや)とざしぬ夜半(よわ)の冬
冬の山中にある小さな村。交通もなく、枯木の林の中に埋(うず)まっている。暖簾(のれん)をかけた質屋の店も、既に戸を閉めてしまったので、万象寂(せき)として声なく、冬の寂寞(じゃくまく)とした闇やみの中で、孤独の寒さにふるえながら、小さな家々が眠っている。この句の詩情が歌うものは、こうした闇黒(あんこく)、寂寥(せきりょう)、孤独の中に環境している、洋燈(ランプ)のような人間生活の侘しさである。「質屋」という言葉が、特にまた生活の複雑した種々相を考えさせ、山中の一孤村(いちこそん)と対照して、一層侘しさの影を深めている。
冬の山中にある小さな村。交通もなく、枯木の林の中に埋(うず)まっている。暖簾(のれん)をかけた質屋の店も、既に戸を閉めてしまったので、万象寂(せき)として声なく、冬の寂寞(じゃくまく)とした闇やみの中で、孤独の寒さにふるえながら、小さな家々が眠っている。この句の詩情が歌うものは、こうした闇黒(あんこく)、寂寥(せきりょう)、孤独の中に環境している、洋燈(ランプ)のような人間生活の侘しさである。「質屋」という言葉が、特にまた生活の複雑した種々相を考えさせ、山中の一孤村(いちこそん)と対照して、一層侘しさの影を深めている。
冬ざれや北の家陰(やかげ)の韮(にら)を刈る
薄ら日和(びより)の冬の日に、家の北庭の陰に生えてる、侘しい韮を刈るのである。これと回想の類句に
冬ざれや小鳥のあさる韮畠(にらばたけ)
というのがある。共に冬の日の薄ら日和を感じさせ、人生への肌寒い侘(わび)を思わせる。「侘び」とは、前にも他の句解で述べた通り、人間生活の寂しさや悲しさを、主観の心境の底で噛かみしめながら、これを対照の自然に映して、そこに或る沁々(しみじみ)とした心の家郷を見出すことである。「侘び」の心境するものは、悲哀や寂寥(せきりょう)を体感しながら、実はまたその生活を懐かしく、肌身に抱いて沁々と愛撫(あいぶ)している心境である。「侘び」は決して厭世家(ペシミスト)のポエジイでなく、反対に生活を愛撫し、人生への懐かしい思慕を持ってる楽天家のポエジイである。この点で芭蕉も、蕪村も、西行(さいぎょう)も、すべて皆楽天主義者の詩人に属している。日本にはかつて決して、ボードレエルの如き真の絶望的な悲劇詩人は生れなかったし、今後の近い未来にもまた、容易に生れそうに思われない。
2024-05-30 10:51
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