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多摩のむかし道と伝説の旅 №127 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

           多摩のむかし道と伝説の旅(№29)
              ー西多摩の多摩川河畔の桜道を行く-7
                    原田環爾

 一本杉を後にすると堤の道はゆっくりと右方向へカーブしてゆく。やがて前方堤の下に鳥居が立っているのが目29-38.jpgに飛び込む。羽村の羽加美にある古社阿蘇神社だ。鳥居は南参道の入り口なのだ。鳥居をくぐると真っすぐ伸びる長い未舗装の参道が続く。参道に入って間もなく、右手雑木林の中に古びた五輪塔と宝篋印塔、更に八幡祠と竜蚊社の合計5基の石造物が立っている。うち2基の五輪塔の1基は、この近くにある一峰院という寺を開基した三田雅楽之介将定等の墓と言われる。中世の青梅、奥多摩を支配した豪族三田氏の一門で、支配領域の東端に位置する長淵郷から羽村にかけて支配していた一族だ。29-39.jpg左端の八幡祠は将定を祀ったものと言われ、また右端の竜蚊社は一種の水神と言われる。
 陽光の降り注ぐ長い南参道を進む。細流を鍵の手状に渡って更に進むと、左に多摩川の流れが迫ってきて再び鳥居の下に来る。鳥居をくぐり階段を上がると、その段丘上に阿蘇神社の社殿が建っている。7世紀初頭の創建という古社である。境内はこじんまりとした樹林で覆われた空間であるが、左端は多摩川を望む段丘上の縁になっていて、遠くに小作堰の管理29-40.jpg橋を望む素晴らしい河原風景となっている。阿蘇神社には承平天慶の乱で活躍した平将門や藤原秀郷の伝説があり、社殿の左手の段丘上に秀郷の手植えという樹高18m、幹回り6.2mの椎の巨木が立っている。社伝によれば阿蘇神社は推古天皇9年(601)神託により当地に創建されたという。古くは阿蘇宮と称した。祭神は健磐龍命。神武天皇の皇子神八井耳命の御子で、九州阿蘇一帯を治めたことから阿蘇大神とも称する。平将門や藤原秀郷による社殿造営の伝説のほか、中世に於いては三田氏に手厚く庇護され造営された。
 29-41.jpg阿蘇神社にはこんな伝説がある。10世紀の初頭、桓武平氏の平将門は腐敗した京の中央政権に反抗して常陸で反乱を起こした。世に承平天慶の乱という。土地の相続を巡る叔父国香との衝突に端を発し、次第に反国家権力の姿勢を鮮明にし、天慶2年(939)常陸国府を襲撃、更に坂東八ヶ国を次々と落とし自らを新皇と称して独立王国を宣言した。丁度その頃、将門には奥多摩の棚沢の将門っ原に館があり、愛妾の滝夜叉姫を住まわせていた。将門は折を見ては29-42.jpg滝夜叉姫を訪ね、その際は必ず羽村の阿蘇宮に立ち寄った。承平3年(933)には社殿も造営している。一方将門の反乱に対し、朝廷は参議藤原忠文を征討大将軍として京より派遣するとともに、東国の諸豪族に将門討伐を命じた。下野の豪族藤原秀郷は帝の命に応じ、国香の息子平貞盛とともに3千の軍勢を率いて将門と戦った。将門は次第に追い詰められ、天慶3年(940)戦いの最中、額を矢で射抜かれて落命する。ところが将門討滅後、将門の魂が雷神になって敵将を焼殺したとか、京に送られた将門の首が目を見開いて白光を発して空を飛んだといった奇怪な噂が相次いだ。秀郷は将門の怨霊を鎮めるため、天慶3年(940)阿蘇宮の社殿を造営し、社殿の傍らに椎の木を手植えしたという。
 阿蘇神社の東参道の大鳥居を抜けると小さな辻になっている。右の里道へ折れて 一峰院へ向かう。里道に入ると畑の一角に吉祥寺跡と記した由緒書が立っている。今は廃寺となった寺の跡という。新編武蔵風土記稿によれば、吉祥寺は山号を山王山と号し、一峰院の末寺であったという。本尊は釈迦立身木造。文化11年(1814)火災で焼失したため、嘉永7年(1854)から一峰院の管理に移されたという。
29-43.jpg 里道をうねうねと辿りハケの急坂を下ると境内の竹林が見事な一峰院の山門の前に来る。山門は2階建ての楼門に鐘楼を兼ねた珍しい鐘楼門になっている。山門をくぐると正面に本堂があり、左手に半僧坊権現堂がある。その裏手には見事な竹林となっている。臨済宗建長寺派の寺で山号を龍珠山と号す。応永31年(1424)長淵系の三田氏である三田雅楽之助将定による開基とされ、開山は周防国高山寺に住した玉英和尚という。宝暦9年(1759)に焼失したが、明和3年(1766)再建された。寺宝に十一面観音像、不動明王像などがある。文化6年(1809)江戸の狂歌師太田蜀山人が幕府役人として羽村に来た折、一峰院に立ち寄り記録を残している。
29-44.jpg 一峰院の前は広大な根溺前水田が広がり、遥か遠くには先の雨乞坂辺りが遠望できる。山門前からハケ下に沿う道は50mほど先で緩やかに左へ曲がり上り坂となってハケを上がってゆく。この坂を間坂といい、それに続くハケ上 の北へ伸びる道を間坂街道という。この間坂辺りが三田氏支配領域の東端と言われ、ここを境に三田氏と小宮氏が支配地を分けていたようだ。なお一峰院前から坂の辺りにかけての崖下は白木と呼ばれ、古墳時代の遺物が出土し、羽村で最も早くから開けた所といい古い家柄の家も多いという。羽村町教育委員会「はむらの歴史」によれば、白木は羽村発祥の地と言われ、白木の意味は城木、すなわち城郭、居館の柵などを意味しているのではないかという。三田氏と関係のある地名という。
29-45.jpg 阿蘇神社の東参道前に戻り、羽加美の集落の小道をうねうねと進む。古い土地柄のため、道が複雑に入り組んでうっかりすると方向感覚を失ってしまうので注意が必要だ。要は多摩川の段丘の縁に沿って小作取水場を目指すことにある。羽村西小学校の校庭の外周路を過ぎ羽西地区に入ると、約100mにわたって鬱蒼と竹林が繁茂する多摩川べり段丘上の小路に出る。竹林を過ぎると視界が大いに開け、眼下に切り立った段丘下をとうとうと流れる多摩川の流れが目に飛び込む。目をあげれば前方に大きく近づいた小作取水堰の管理橋が望見できる。古くから土地の人が「精進ばけ」と呼ぶハケはこの辺りのことを指すのであろうか。精進ばけに伝わる伝承にこんな話がある。昔、精進ばけの上に大日如来を祀った古びた堂宇があった。ある時、多摩川が洪水に襲われ、その際にお堂が流れ出て、遥か川下の拝島の河原に上がった。それを見つけた村人が拾って手厚く祀った。それが拝島の大日堂である。但しこの話には他に日原鍾乳洞から流れ出たという説もある。
29-46.jpg 段丘上の遊歩道の小路に入り、うねうねと進むと小作取水堰の管理橋の袂に建つ民家にふさがれて進路を阻まれる。コの字型に迂回して坂道を下ると管理橋の北詰の削平地に出る。右手眼下には取水堰の施設を一望することが出来る。ここで取水された多摩川の水は水道管で山口貯水池(狭山湖)へ送水されているのだ。大正5年~13年にかけて狭山丘陵に村山貯水池(多摩湖)が建設され、これに引き続いて昭和3年~8年にかけて第二期工事として山口貯水池(狭山湖)が建設された。ともに羽村で取水された多摩川の水が送水されたが、昭和55年に新たに小作取水堰が建設され、ここで取水された多摩川の水が沈砂池で浄化された後、小作・山口線と称する直径3.8mの地下導水管によって送水されることになった。なお小作取水堰の管理橋は延長193mもある。
 小作取水堰を後に小作駅への帰路を採る。奥多摩街道に出て西へ進むと、東から長い坂で下ってきた都道249号線との交差点「小作坂下」に出る。斜め筋向いの丘は加美緑地だ。交差点を渡ると角地にガソリンスタンドがあり、その横に小作の講中により造立された馬頭観音が立っている。その傍らから緑地へ入る急坂の小路がある。小路をうねうねと上り切るとベルト状に延びる加美緑地に入る。ここから小作台小に沿って北へ向かう道を採れば、程なく新奥多摩街道と交差し、渡ればもうJR小作駅は目の前だ。(完)

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