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多摩のむかし道と伝説の旅 №125 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

           多摩のむかし道と伝説の旅(№29)
              ー西多摩の多摩川河畔の桜道を行く-5
                    原田環爾

[後編]羽村駅から小作駅まで(桜:羽村堰~阿蘇神社)

 コース概略は次の通り。JR羽村駅を出発し、五ノ神神社、牛坂通りを経て玉川上水水辺に出る。羽村関を経て堰界隈の古社寺に立ち寄って根溺前水田へ。続いて多摩川桜堤を通って阿蘇神社と一峰院に立ち寄った後、羽西の里道を辿って小作堰へ。終着は奥多摩街道からJR小作駅へ至るものとする。詳細地図を以下に示す。
29-31.jpg JR青梅線羽村駅を北側に出て、駅前ロータリーの右手西友のすぐ裏にある五ノ神神社へ向かうことにする。狙いはそこにある「まいまいず井戸」を見るためである。まいまいず井戸とは、武蔵野台地のような火山灰地の乏水地帯で水を得るために築造されたすり鉢状の古井戸のことである。五ノ神神社は推古天皇9年(601)創建と伝える。宝亀年間(770~780)に熊野五社大権現を祀ったことから、元は熊野社と称し、五ノ神の地名が生まれたという。祭神は天照大神、素戔嗚尊、天児屋根尊、伊弉冉尊、事解能男尊、現在の本殿は文久2年(1862)に竣工したものである。五ノ神神社の前にある「まいまいず井戸」は伝承では大同年間(806~810)に造られたと言われるが、実際には鎌倉時代に創建されたものと推定されている。記録によれば元文6年(1741)五ノ神村で井戸の改修工事が行わている。地表面での直径16m、深さ約4.3m、底面直径約5mのすり鉢状の窪地で、すり鉢の底中央に直径約1.2m、深さ5.9mの掘り井戸がある。井戸に向かって降りる通路が「かたつむり」に似ていることから「まいまいず」の名がある。

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 再び羽村駅の改札口の前を通って駅の南側に出る。駅前からすぐ左へ入る路地を採る。狭い路地を線路とほぼ平行に100mも進めばやや広めの車道に出て、すぐ南へ入る街路が現れる。道標に街路の名を牛坂通りと記している。一風変わった名である。この道はかつてはまいまいず井戸に通じていた。実際街路を振り返ってみると、すぐ20~30m先でJR線にぶつかって終わっている。線路の向こうに延長すればまいまいず井戸に至ることは容易に理解できる。牛坂通りの名は、江戸時代の元文6年(1741)のまいまいず井戸大修理の際に、ここより南1k29-28.jpgmほどの所にある多摩川から石や砂を運んだが、その間に3つの坂があったので、牛を使って運んだということからこの名がある。伝える所によるとこの坂道は牛にとっても相当重労働であったようで、井戸から300m の所にあった坂で何頭かが倒れて死んだという。
 牛坂通りに入る。何の変哲もない街路だ。街路は右の羽東地区と左の川崎地区の境界を縫う道だ。ほどなく緩やかな下り坂となり、下りきった所で新奥多摩街道と交差する。街道を横切ると牛坂通りは再び平坦な街路となる。ほどなく右手アパートのある丁字路帯に来る。ここから右手分岐道の先に眼をやると羽村東小が見える。ちなみに羽村東小の校門前には旧鎌倉街道の道筋が今も残されている。またこの丁字路帯の一角に、この付近一帯が縄文時代の遺跡跡であることを示す解説板が立っている。解説によると、羽村東小を西端とする東西約500mは縄文中期(4~5千年前)の集落跡で、羽ヶ田上遺跡という。昭和28年、学校建設に伴う発掘調査で発見された「東ガヤト遺跡」と明治時代以来土器片が採集されていた「川崎遺跡」を合わせて「羽ヶ田上遺跡」と称されるようになったという。
29-29.jpg 丁字路から先の牛坂通りは狭い路地となる。程なく緩やかに右方向へカーブすると、眼下に玉川上水を望む河岸段丘の上に来る。道はこの先急な長い下り坂となるが、左手を見ると段丘上にささやかな公園が隣接している。川崎西公園と言い、公園突端からの眺望は良く、特に玉川上水第3水門を一望に見渡せるのがいい。第3水門の役割は狭山丘陵村山貯水池へ送水するための水を取水することにある。頭を180度巡らせて公園の北側に目をやると、真っすぐ北東方向へ延びる道が目に入る。この道筋こそその水道道路で、地下に送水管が埋設されているのだ。羽村村山線と言い、大正5年~13年にかけて帝都の水瓶として建設された村山貯水池へ多摩川の水を送水する導水管が埋設されている。途中福生29-30.jpgの横田基地で分断されるが、その先武蔵村山に入ると再び姿を現し、野山北公園自転車道となっている。面白いことに昭和初期にはこの同じ道を鉄道が走っていた。昭和3年~8年にかけて第二期工事として山口貯水池建設が行われ、そのため多摩川の良質の砂利を大量に必要とし、その輸送手段としてこの水道上に鉄道を敷設、いわゆる軽便鉄道を走らせた。
 またこの小公園はもう一つ別の歴史的遺構の跡地でもある。先の羽村東小で途切れた旧鎌倉街道が通っていた道筋に相当するのだ。かつては遠江坂と称する坂道があったという。遠江坂は、旧羽村と川崎村の境にあったが、大正時代に羽村堰から村山貯水池への取水工事のため壊され、今はかつての姿を留めていない。戦国時代、当地を支配した豪族大石遠江守が、この坂の付近に居館を構えていたことから遠江坂の名がある。遠江坂を下り、多摩川を渡って秋川方面へ向かう古道は鎌倉街道とも遠江街道とも呼ばれ、大石氏や小田原北条氏の滝山城や高月城を望む要衝として大石氏が館と築いたものと考えられている。(なおごく最近、川崎西公園の界隈は大幅に区画整理がなされ、記載内容とは少し変わっている可能性があるので要注意。)28-33.jpg
 坂道を下って奥多摩街道に入る。第3水門を後にして玉川上水左岸を100mも進めば、青い陸橋と信号付横断歩道のある羽村橋の袂に来る。橋の袂には都の天然記念物という欅の巨木が立っている。目通り幹囲約5.5m、樹高約23.5mという。羽村橋を渡り上水の右岸に回る。右岸は桜並木になっていて季節の頃は花見客で賑わう所だ。やがて左手から多摩川堤が接近し上水の桜堤と合流すると、前方には広々とした河原29-32.jpg風景が展開するとともに羽村の堰が姿を現す。やがて取水堰を眼下に見下ろす広場に入る。広場には玉川上水の開削に心血を注いだ玉川兄弟の像が立ち、また別の一角には多摩川の水流を調節するのに使われた牛枠が置かれている。広場の突端からは左手に投渡し堰、正面に第一水門と吐水門、右手段丘 下に第二水門が見ることができる。(この項つづく)


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