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武州砂川天主堂 №26 [文芸美術の森]

明治十年 2

           作家  鈴木茂夫


三月五日、神戸、京都。
 午前五時、広島丸は神戸港に入港、全員上陸して大阪に向かう。部隊は、大阪に駐在している川路大警視の命令により、近藤警部の率いる小部隊は、梅田より汽車で京都へ行き、御所の警備についた。小野田警部が率いる隊は、大阪に留まっている。

三月十七日、神戸から博多へ。
 田辺少警視、長尾直景(なおかげ)警部は、部下を率い、午後一時三十分、大阪を出発、午後二時五十分、神戸港に到着。午後八時、黄龍丸に搭乗、九州・博多港をめざした。
 船中で、田辺少警視は訓示した。
 「電報による現地の情報では、賊軍は、銃器・弾薬が不足しているとみられる。現地の各警視隊は、勇敢に戦って敵に打撃を与えているが、兵力が不足しているので、これを補充しなくてはならない。つまり、京都に駐屯していたわれわれ二百五十人および石川県にあった六十余人を第一線に派遣することとなった。これは、われわれにとって名誉なことである。われわれは力をふるって任務を遂行しなければならない。われわれの達成する任務は、現在、熊本城を包囲している賊軍を撃破して、熊本城防衛軍を救接しなければいけない。作戦の総指揮は田辺が執るが、戦闘場面では、長尾一等大警部が指揮を執る。博多港に到着したら、小銃、剣で軍装する。各隊は、順次輪番して先頭に位置し、最後尾にあたる隊は、弾薬、食料などの警護にあたる。攻撃する場合、伍長以上の者が先に進むのは言うまでもない。各隊員は隊長に先立って戦うことが望まれる。戦闘中は、隊伍を整え、混乱することのないようにせよ。また味方識別の合い言葉、指揮連絡旗の確認は、大切である。これにより、敵の夜襲を判別するためにもその確認は大切である。戦死者、負傷者の救護は、状況に応じてなすべきである。ただし、集合ラッパが鳴らされた時は、速やかに集合すべきである。隊員は、分隊ごとに、作業の協力分担をしなければならない。隊員の中に一人でも卑怯な振る舞いがあれば、分隊全員の恥とし、小隊全員に謝罪すべきである。隊員の中に怯えて進撃しない者がいれば、これを斬り捨てて進撃するべきである。また、戦闘場面にあっても、警察官の本分である人民保護のつとめは、決して忘れてはいけない」
 寿貢は、九州に上陸すると、戦闘がはじまると覚悟した。

三月十九日、博多港。
 正午、黄龍丸、博多港入港。田辺少警視以下、全員上陸。ここで全員にスナイドル銃と刀が支給された。明二十日、南関に到着予定。

三月二十日、久留米。
 午前七時、博多を出発、しとしとと降りつづく春雨に、道路はぬかるみ、足をとられた。午後六時、ようやく久留米に到着。

三月二十一日、久留米から南関へ。
 午前六時、田辺少警視以下、久留米を出発。午後三時、南関に到着。昨日、道路はぬかるみ、行進は、容易ではなかった。

三月二十二日、轟木村(とどろきむら)。
 午前六時、田辺少警視以下、全員高瀬を出発、午前十一時、轟木村に入る。

『武州砂川天主堂』 同時代社


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