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浅草風土記 №3 [文芸美術の森]

仲見世 1

      作家・俳人  久保田万太郎
 

  

 ……わたしは、小学校は、馬道の浅草小学校へかよった。近所にいろいろ小川学校だの青雲学校だのといった代用学校があり、田原町、東仲町界隈のものは、みんなそれらの「私立」へかようのをあたりまえとしたが、わたしは長崎屋のちゃァちゃん(いまも広小路に「長崎屋」という呉服屋は残っている。が、いまのは、わたしの子供の時代のとは代を異にしている。もとのそのうちは二十年ほどまえ瓦解した。その前後のゆくたてに花ぐもりの空のようなさびしさを感じて、いつかはそれを小説に書きたいとわたしはおもっている)という子と一しょに、公立でなければという双方の親たちの意見で、遠いのをかまわずそこまでかよわせられた。— 浅草学校は、浅草に、その時分まだ数えるほどしかなかった「市立」のうちの最も古いものだった。
 毎日、わたしは、祖母と一しょに「馬車みち」-— その時分まだ、東京市中、どこへ行っても電車の影はなかったのである。どこをみても「鉄道馬車」だったのである。だからわたしたちは「電車通り」という代りに「馬車みち」といった。東仲町の今電気局のある所に馬車会社があったのである。— を越して「浅倉屋の露地」を入った。今よりずっと道幅の狭かったそこは、しばらく両側に、浅倉屋の台所ロと、片っぽの角の蕎麦屋の台所口との続いたあと、右には同じく浅倉屋の土蔵、左には、表に灰汁桶の置かれてあるような女髪結(おんなかみゆい)のうちがあった。土蔵のつづきに、間口の広い、がさつな格子のはまった平屋があった。出羽作(でわさく)という有名なばくちうちの住居だった。三下が、始終、おもてで格子を拭いたり水口で洗いものをしたりしていた。—ときには笠をもった旅にんのさびしいすかたもそのあたりにみられた。
 道をへだてて井戸があり、そばに屋根を茅で葺いた庵室といったかたちの小さなうちがあった。さし木のような柳がその門に枝を垂れ、おどろに雑草がそのあたりを埋めていた。
—と、いま、ここにそう書きながら、夏の、ぎらぎらと濃い、触ったらベットリと手につきそうな青い空の下、人あしの絶え、もの音のしずんだ日ざかりの、むなしく自じらと輝いた、でこぼこに石を並べたその細いみちをわたしは眼にうかべた。駄菓子屋のぐッたりした日よげ、袋物屋の職人のうちの窓に出したぽつんとした稗蒔(ひえまき)……遠く伝法院の木々の蝉が、あらしのように、水の響きのようにしずかに地にしみた。—その庵室のようなうちには、日本橋のほうの、小間物問屋とかの隠居が一人寂しく余生を送っていた。
 出羽作の隣は西川勝之輔という踊りの師匠で、外からのぞくと、眼尻の下った、禿上った額の先代円右に似たその師匠が、色の黒い、角張った顔の細君に地を弾かせ、「女太夫」だの「山かえり」だの「おそめ」だのを、「そら一ィ二ゥ三イ……ぐるりとまわって……あんよを上げて……」と小さい子供たちにいつも熱心に稽古していた。— それに並んで地面もちの、吉田さんといううちの、門をもった静かな塀がそのあとずっと出外れまでつづいていた。— 子供ごころに、いまに自分もそうした構えのうちにいつかは住みたいとそこを通る毎しばしばそうわたしは空想した。商人のうちに生れたわたしたちにとって門のある住居ほど心をそそるものはなかった。
 ……「浅倉屋の露地」を出抜けたわたしはそのまま泥溝にそって公園の外廓を真っすぐにあるいた。いまのパウリスタの角を右に切れて ー その左っ角に大鹿という玉ころがしかあった1いうところのいまの「でんぼいん横町」を「仲見世」へ出たのである。

    二

 ……と、簡単にそういってしまえばそれだけである。が、片側「伝法院」の塀つづき、それに向いてならんだ店々だから、下駄屋、小間物屋、糸屋、あるへい糖を主とした菓子屋、みんな木影を帯び、時雨の情(こころ)をふくんで、しずかにそれぞれ額をふせていた。額をふせて無言だった。……それには道の中ほどに、大きな榎の木あって遅しい枝を張り、暗くしツとりと日のいろを……空のいろを遮(せ)いていた。— その下に古く易者が住んでいた。— いまの天抵羅屋「大黒屋」は出来たはじめは蕎麦屋だった。
 したがってそこへ出る露店も、しずかにつつましい感じのものばかりだった。いろは字引だの三世相(さんぜそう)だのを並べた古本屋だの、煙草人の金具だの緒肺だのをうる道具屋だの、いろいろの定紋のうちぬきをぶら下げた型紙屋だの。— ときに手品の種明しや親孝行は針のめど通し……そうしたものがそれらの店のあいだに立交るだけだった。だから、それは、「仲見世」に属して、そこと「公園」とを結びつける往来とよりも、離れて「伝法院」の裏通りと別個にそういったほうが、より多くそこのもつ色彩にふさわしいものがあった。— と同時に「伝法院」の裏門がもとはああしたいかめしいものではなかった。いまの、もっと、向って右よりに、屋根もない「通用門」といった感じの、ごくさびしい雑な感じのものだった。
 が、それはひとりその往来ばかりでなかった。「仲見世」のもつ横町すべてがそうだった。雷門を入ってすぐの、角にいま「音羽」という安料理屋のある横町、次の、以前「天勇」の横町といった、角にいま「金龍軒」という西洋料理のある横町、そのつぎの、以前「共栄館」の横町と呼ばれた、いまその角に「梅園」のある横町、右へとんで蕎麦屋の「万屋(よろずや)の横町—それらの往来すべてがつい十四五年前まで、おかしいほど「仲見世」の恩恵をうけていなかったのである。お前はお前、わたしはわたし、そういったかたちにわかれわかれ、お互が何のかかわりも持たず、長い年月、それでずっとすごして来たのである。— そのうち「金龍軒」の横町にだけは、「若竹」だの、「花家」だの「みやこ」だのといった風の小料理屋がいろいろ出来、それには「ちんや横町」を横切って「区役所横町」まで、その往来の伸びている強味がそこをどこよ。も早く「仲見世」と手を握らせた。でも、そこに、いまはどこへ行ってもあんまりみかけない稼業の刷毛屋(はけや)があり、その隣にねぼけたような床足があり、その一二けん隣に長唄の師匠があって、癇(かん)高い三味線の音をその灰いろの道のうえに響かせていたのを、昨日のことのようにしかわたしはおもわない。後にそのならびに出来た洋食屋の「比良恵軒」、九尺間口の、寄席の下の洋食屋同然に汚かったその店は、中学の制服を着立てのわたしに、「カツ」だの「テキ」だの「カレエ」だのと称するものの「やっこ」のいかだ「中清」のかき揚以上に珍味なことをはじめて教えてくれた盾である。— その時分、その近所、「浅草銀行」の隣の「芳梅亭」以外、西洋料理屋らしい西洋料理屋をどこにももっていなかったのである。「音羽」の横町には格子づくりのおんなじ恰好のしもたやばかり並んでいた。正月の夜の心細い寒行(かんぎょう)の鉦の音かいまでもわたしをその往来へさそうのである。— 「梅園」の横町については嘗てそこに「凧や」のあったことを覚えている。よく晴れた師走の空かいまでもわたしにその往来の霜柱をおもわせるのである。— どこもともにけしきは「冬」である。
 で、「万星」の横町は…‥
……邁草をくってはいけない、わたしはいま学校へ行く途中である。

『浅草風土記』  中公文庫


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