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多摩のむかし道と伝説の旅 №109 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

        多摩のむかし道と伝説の旅(№26)
   -御岳渓谷、鳩ノ巣渓谷、数馬峡を辿る奥多摩への道-3
              原田環爾

 1kmほど行くと神塚橋という古びた小さな石橋があり、続いて綺麗なコンクリートアーチの大正橋という大丹波川に架かる橋の袂に来る。橋の袂に庚申塔と大橋供養塔がそっと佇んでいる。大正橋は元は文化11年109-1.jpg(1814)川井村の名主中村庄蔵により造られたという。当時は「大橋」又は「沢井之橋」と呼んだそうだ。山梨県大月市の猿橋に似た肘木橋で橋長7間(14.5m)、巾4尺(1.2m)の木橋だっ たという。大正8年(1919)架け替えがあったことから大正橋という名が生まれた。当時は赤煉瓦の味のある橋だったという。なお大正橋の傍らの小道を上がるとそこに川井駅がある。一方大正橋の左手渓谷に忽然と巨大な白い吊橋の奥多摩大橋が全貌を現す。あまりの大きさに圧倒される。奥多摩大橋は平成8年に竣工した新しい橋だ。
 109-2.jpg奥多摩大橋を渡る。大橋から深い川井の渓谷と遥か下の川井キャンプ場をしばし眺めて後、対岸の吉野街道へ回る。大橋の袂には「梅沢」の標識が掛かっている。梅沢はこの辺りの土地の名だ。人気の無い吉野街道を古里に向けて進む。沿道右に千島わさび園の奥多摩わさび直売所が現れる。やがてぽつぽつと民家が立ち並ぶ様になる。そのうち沿道左に「丹三郎」と記したひときわ古風な店構えのそば・うどん屋が目に入る。通称丹三郎屋敷と呼ばれている旧家だ。由緒書によれば、丹三郎屋敷は明応・天文の頃、丹三郎集落を拓いた原島丹三郎友連、その末裔により集落の庄屋名主として代々受け継がれたもので、建てられて二百余年たつ旧家という。ちなみに丹三郎の兄、原島丹次郎友一は日原を拓いている。彼らは元は埼玉県大里郡原島村からやってきた一族で、奥多摩地方開拓の祖と言われる。古くは武蔵七党の武士団の一つ丹党ゆかりの人達という。
109-3.jpg やがて万世橋の袂に来る。橋上から渓谷を横目に見ながら渡り終えると青梅街道に丁字路でぶつかる。ここは古里の中心部で正面土手の上に古里駅はある。青梅街道に沿って100mばかり進めば沿道左に「奥多摩福音の家」「奥多摩町消防団第1分団第1部」があり、その傍らから左手集落へ入る分岐道がある。分岐点に「大多摩ウォーキングトレイル」の案内板が立っている。分岐道に入って再び渓谷の道を目指す。この分岐道はかつての旧青梅街道なのだ。
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静かなたたずまいの集落の 坂道を下って行くと、右手土手の中腹に石塔1基と石燈籠が立っている。石塔は聖徳109-6.jpg109-5.jpg太子塔で弘化2年(1845)と刻まれている。この辺りは昔から林業を生業とする杣職人が多いことから、古くから林業・建築の神として崇敬された聖徳太子を祀っているのであろう。また隣の石燈籠は秋葉大権現・愛宕山大権現、榛名山大権現と刻まれている。更に旧青梅道を進むと分岐点にさしかかる。その角地に小さなお堂があり、中に高さ1mばかりのコケシの様な形状の石塔が祀られている。石塔をよく見ると上部に複数の地蔵が彫り込まれている。通常六地蔵と呼ばれている。その堂宇の筋向いの一段下がった所に小屋があり、中に湧水を称えた大釜が鎮座している。「釜の水」といっ109-7.jpgて、青梅街道を行き交う旅人がここで喉を潤したという。分岐点を左に採り、更に下って行くと、下りきった所に沢に架かる石橋がある。石橋は清見橋という。古い書物では古里附橋、更に昔は垢離尽橋と称し、小丹波村と棚沢村の境界をなしたという。橋の下を流れる沢は入川で、橋の上から右手を見ると入川の滝壷になっていて激しい水音を立てている。不動滝とも呼ばれている。伝えるところによれば、御岳参籠をする信者は、まずこの不動滝に浴して垢離を取り、潔斎してから登山したという。そのことから、垢離尽(古里附)の名が起109-8.jpgこったという。一方橋の左はと見ると入川が多摩川に向かって流れ下り50mくらい先で多摩川に注いでいる。多摩川の景観は木立で阻まれてすっきりは見えないが、この辺りの河原はかなり広い。実はこの河原、筏流しが盛んな頃は多くの筏が組まれた土場なのだ。幕末から明治にかけてこの辺りは杣職人や筏師で大いに賑わっていたのであろう。橋の近くにある石仏は磨滅してよくわからないが、これも聖徳太子像ではなかろうか。(この項つづく)


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