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浅草風土記 №2 [文芸美術の森]

広小路 2

        作家・俳人 久保田万太郎

     三

 ところで「でんぼん横町」である。いまではその「大風呂横町」に向合った横町を— 三好野と三川屋呉服屋とを(かつてはそれが、下駄屋とすしやだった)その両角に持ったにぎやかな横町を「でんぼん横町」といわないのである。そういわないで「区役所横町」というのである。そうして伝法院の横の往来1その「区役所横町」(「でんぼん横町」とよりはやや正しく)と、いまではそう呼んでいるのである。
の出はずれによこたわって仲兄世と公園とを結びつけているむかしながらの狭い通りを「でんぼいん横町」 その「区役所横町」(最近までわたしはそれを承服しなかった。強情にわたしは「でんぱん横町」といいっづけた。が、たまたまわたしと同年配の、それこそ「珍世界」の太鼓をたたく猿の人形も知っていれば、電気館のあごなしの口上いいもよくおぼえているさる人の、躊躇なくそこを「区役所横町」と呼びなしているのを聞いてわたしは我を折った。
「区役所横町」では身につかない感じだがやむを得ない)を入ってすぐのところに、以前共同鳳のあったことをいっても、おそらくだれもその古い記憶をよび起すのに苦しむだろう。それほど、整った、美しい、あかるい店舗の羅列をその両側がもつにいたったのである。ことにその下総屋(しもふさや)と舟和との大がかりな喫茶店(というのは、もとよ。あたらない。といっても、そもそものミツマメホールというのもいまはもうあたらない。ともにその両方のガラスの球すだれを店さきに下げたけしき~この頃の暑さにむかってのその清涼なけしきがいまはまれにしかみられない「氷店」といった感じをわたしに与えるのである)のすさまじい対立は「新しい浅草」の繁栄とそれに伴う無知なよろこびとをいさましく物語っている。 ― 下総屋は「おかめ」の甘酒から、舟和は芋羊糞製造から、わずかな月日の間に、いまのようなさまにまでそれぞれめざましく仕出したのである。
 ……が、仕出したということになると、わたしの十二三の時分である、前章に書いた川崎銀行の角、際物師の店の横にめぞヅこ鰻をさいて焼く小さな床見世があった。四十がらみの、相撲のようにふとった主人が、年頃の娘たちと、わたしより一つ二つ下のいたずらな男の子とを相手に稼業していたC外に、みるから気の強そうな、坊主頭の、その子供たちにおじいさんと呼ばれていた老人がいたが、そのうちどうした理由かそこを止し、広小路に、夜、矢っ張その主人が天ぷらの屋台を出すようになった。いい材料を惜しげもなく使うのと阿漕(あこぎ)に高い勘定をとるのとでわずかなうちに売出し、間もなく今度は、いまの「区役所横町」の徳の家という待合のあとを買って入った。— それがいまの「中清」のそもそもである。
 ついまだそれを昨日のようにしかわたしは思わないが、広小路のあの「天芳」だの仲見世の「天勇」だののなくなったいま、古いことにおいてもどこにももう負けないであろう店にそのうちはなった。が、そこには、その横町には、さらにまたそれよりも古い「蠣(かき)めし」がある 。
 — 下総屋と舟和をもし、「これからの浅草」の萌芽とすれば、「中清」だのそこだのは「いままでの浅草」 の土中ふかくひそんだ根幹である…・

     四

「ちんやの横町」のいま「衆楽」というカフェエのあるところは「新恵比寿亭」という寄席のもとあったところである。古い煉瓦づくりの建物と古風なあげ行燈との不思議な取合せをおもい起すのと、十一二の時分、たった一度そこで「白井権八」 の写し絵をみた記憶をもっているのとの外には、その寄席について語るべき何ものもわたしはもっていない。
なぜなら、そこは、わたしが覚えて古い浪花ぶしの定席だったからである。— その時分わたしは、落語も講釈も義太夫も、すべてそうしたものの分らない低俗な手合のみの止むをえず聞くのが浪花ぶしだとおもっていた。そう思ってあたまからわたしは馬鹿にしていた。—  ということはいまでも決してそうでないとはいわない。
(ついでながら、わたしの始終好きでかよった寄席は「並木亭」と「大金亭」だった。ともに並木通りにあって色もの専門だった。- 色もの以外、講釈だの浄瑠璃だのとはごくまれにしか足ぶみしなかったわたしは、だから、吾妻橋のそばの「東橋亭」、雷門の近くにあった「山広亭」、「恵比寿亭」、そうした寄席にこれという特別の親しさをもっていなかった — が「山広亭」、「恵比寿亭」とおなじく、いまはもう「大金亭」も「並木亭」も、うちよせた「時代」の波のかなたにいつとはなしすかたを消した。残っているのは「東橋亭」だけである。)
 いまでこそ「衆楽」をはじめ「三角」あり、「金ずし」あり、「吉野ずし」あり、ざったないろいろの飲食の場所をそこがもっているが、嘗ては、はえないしもたやばかりの立並んだ間に、ところどころうろぬきに、小さな、さびしい商人店 — 例えば化粧品屋だの印判屋だのの挟まった……といった感じの空な往来だった。食物店といってはその浪花節の寄席の横に、名前はわすれた、おもてに薄汚れた白かなきんのカーテンを下げた床見世同然の洋食屋があるばかりだった。1なればこそ、日が暮れて、露ふかい植木の夜店の、両側に、透きなくカンテラをともしつらねたのにうそはなかった。— 植木屋の隙には金魚屋が満々と水をみたした幾つもの荷をならべた。虫屋の市松しょうじがほのかな宵闇をしのばせた。燈籠屋の廻り燈寵がふけやすい夏の夜を知らせがおに、その間で、静かに休みなくいつまでもまわっていた。
 「さがみやの露地」「浅倉屋の露地」ともにそれは「広小路」と「公園」とをつなぐただ二つの……という意味は二つだけしかないかなめのみちである。そうして「さがみやの露地」には、両側、すしや、すしや、すしや……ただしくいえば天ぷら屋を兼ねたすしやばかり目白押しに並んでいる。まぐろのいろの狂潤のかげにたぎり立つ油の音の怒涛である。
 - が、嘗てのそこは、入るとすぐおもてに粗い格子を入れて左官の親方が住んでいた。
その隣に 「きくもと」 という待合があった。片っぽの側には和倉温泉という湯屋があり煙草屋を兼ねた貸本屋があった。
 ……そこで、一段、みちが低くなった。
 あとは、両側とも、屋根の低い長屋つづき、縫箔屋だの、仕立屋だの、床屋だの、道具屋だの、駄菓子屋だの、炭屋だの、米屋だの……あんまり口かずをきかない、世帯じみた人たちばかりが何のたのしみもなさそうに住んでいた。—と、わたしは、その露地のことを七八年まえ書いたことがある。 — が、そのときはまだ和倉温泉はあった。かたちだけでもいま残っているのはその途中にあるお稲荷さまの岡だけである。
 で、「洩倉綿の路地」は — 「公珊劇物近遺」の下に「食通横町」としたいまのその露地は……

『浅草風土記』 中公文庫



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