SSブログ

雑記帳2023-5-15- [代表・玲子の雑記帳]

2023-5-15 
◆栃木県がかって「東の飛鳥」と呼ばれていたことをご存知ですか。

現在の栃木(那須を除く)・群馬県一帯ははかって「毛野国(けのくに)」と呼ばれていました。後に「下野(しもつけ)」と「上野(こうずけ)」にわかれ「毛」の字は消えましたが、「け」の音は残っているのです。

「毛」の由来は諸説ある中に、「蝦夷」を古くは「毛人」と呼んだからというのがあり、地理的に説得力があるような気がします。

3世紀から7世紀までの400年間、北海道や東北北部、南西諸島を除く日本列島各地に多くの古墳が造られました。各地域の首長によって作られていた大きな墓の特徴が3世紀頃に集められて、定型化した大きな墓が造られるようになったのですが、小さいものを含めると、その数は15~6 万ともいわれ、何と、今のコンビニの数より多いのです。
それだけ多くの権力者が割拠していた中で最大の勢力は畿内のヤマト王族でした。やがて、この王族を頂点として仰ぎ、従属的に同盟する形で大和朝廷誕生につながるのは中学校の歴史で習うところです。
この時期、栃木県内には1,100基の古墳が造られました。

古墳と言えば、だれしも前方後円墳を思いうかべますが、実は地域によって少しずつ形はことなり、下野に残る初期の古墳は帆立貝型、最古のものは前方先端が丸く広がる特別な形をしています。
5世紀になって多くが前方後円墳になるものの、それだって、中央とは違う、関東でアレンジされた前方後円墳だったといいます。古墳にも関東人の気概がみえかくれするようですね。
そして、畿内の古墳は埋蔵品の多くが盗掘されたのに対し、こちらはほとんど盗掘されることなく今にいたり、発掘と、出土した埋蔵品のかけらをつなぎ合わせる作業はずっとつづけられています。

下野市にある「栃木県埋蔵文化財センター」はそうした作業を経て修復なった埋蔵品を展示しています。陳列された土器の数々は実際に手で触れることもできます。
考古学一途の職員が古代と同じ製法で焼いたという土器も見せてもらいました。
センターには毎年、全国から埋蔵品の発掘調査報告書が集まって来ています。

DSC02752 のコピー.jpg
栃木県埋蔵文化センター
DSC02739 のコピー.jpg
DSC02737 のコピー.jpg
修復された土器の数々
DSC02742 のコピー.jpg

埋蔵文化財センターのある一帯は「下野天平の丘公園」という名の、市民の憩いの場所です。国分寺跡、国分尼寺跡を整備した公園は、訪れたこの日(3月23日)は花まつり、下野薄墨(シモツケウスズミ)の桜が満開でした。
公園の一角にある「しもつけ風土記の丘資料館」を訪ねました。

DSC02727 のコピー.jpg
満開のシモツケウスズミザクラ
DSC02706 のコピー.jpg
しもつけ風土記の丘志朗館

ここでは、弥生墳丘墓から前方後円墳が出現するまでを学ぶことができます。
古墳づくりには大勢の人力が必要でしたが、出土品からはそこに渡来人が加わっていたことも見て取れるのです。

4世紀、朝鮮半島は高句麗、百済、新羅の三国に分かれた動乱の時代、百済は倭国と呼ばれていた日本との交流を深めていました。背後には中国からの脅威もあり、人々はなかなか穏やかにはいられなかった時代でした。渡来人の中には、今でいえば、避難民もいたのではないかと遅まきながら気がつきました。

DSC02711 のコピー.jpg
馬は権威の象徴だった
DSC02712 のコピー.jpg
DSC02713 のコピー.jpg
特徴のある埴輪や埋蔵品
DSC02714 のコピー.jpg
ある首長の葬送儀礼で使われた什器の数々
DSC02723 のコピー.jpg
DSC02722 のコピー.jpg
DSC02721 のコピー.jpg
階級に応じた食事内容の展示が面白い(上から庶民、役人、貴族)

やがて7世紀、日本は飛鳥時代にはいります。
ここに登場するのが下毛野朝臣小麻呂(しもつけのあそんこまろ)です。
701年、文武天皇は大宝律令をさだめ、日本は律令国家としての第一歩をふみだします。この時、藤原不比等らとともに律令制定にかかわったのが下毛野小麻呂でした。19人中の4番目だったそうです。

中国語にも堪能だった小麻呂は相当優秀な官僚だったらしく、都で参議として活躍する一方で、下野薬師寺建立に力を注ぎます。寺は天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病快癒を祈って創建したのです。710年に都が平城京に移るときにも小麻呂の進言があったといわれています。

下野薬師寺は、奈良の東大寺、筑紫の観世音寺と並んで、日本三戒壇のひとつとなって、全国から多くの学僧を集めました。
下野は「東の飛鳥」とよばれました。

寺の跡地に隣接して建てられた下野薬師寺資料館には、発掘調査によって見つかった瓦をはじめとする出土品や文献、復元模型が展示されていました。

DSC02788 のコピー.jpg
下野薬師寺伽藍の模型
DSC02790 のコピー.jpg
出土した瓦

あまり知られていませんが、後に、称徳天皇(孝謙天皇が重祚)の死去にともなって失脚した道教が、宝亀元(770)年に下野薬師寺に別当として着任しています。歴史を習った当時、中学生だった私は、道教はてっきり死罪になったと思いこんでいました。道教は2年後に死去、庶人としてこの地に葬られたということです。

奈良時代、隆盛を誇った薬師寺はすでに力を失いつつありました。
朝廷は多賀城を築いて、下野を対蝦夷政策の拠点としました。全国に国分寺が建立されたのがこの時代です。
律令によって庶民の生活は管理され、4年に一度の戸籍調査も実施されていました。
税の取り立ては厳しく、下野の住民は毎年4人が一組となって、東山道を歩いて600キロの都まで租税を納めに行かなければなりませんでした。なおかつ、4人のうち2人は防人となって、さらに九州までの600キロを旅しなければならなかったのです。運がよければ摂津から出る船に乗ることができましたが、船便はしょっちゅうあるわけではなく、乗れなければまた歩くのです。下野は北の守りの先端であると同時に、西の防波堤にもさらされたのでした。

いったい、国を守るとはどういうことなのか。権力者が「国を守る」と言うとき、守る「国」とは何なのか。誰が守るというのか。律令を作った小麻呂さん、故郷の人たちがこんな目にあうことを想像したのだろうか。
そして、民主主義の時代に生まれてよかったねと思っている私たち、国を守るとさえ言えば有無を言わさぬところがあり、役にも立たない兵器購入に防衛費はとてつもなくふくらみ、それが何の議論もなく決まってしまう、沖縄の基地の問題はなんの進展もない、13oo年前の下野の住民とどこがちがうのだろう。

さて、県内に1,100基もあるという古墳は、7世紀になると前方後円墳は姿を消し、円墳や方墳に転換します。そして、7世紀後半には古墳の築造もなくなるのです。

下野市の南に隣接する小山市には県内最大級の前方後円墳である琵琶塚古墳と摩利支天塚古墳ががあります。墳丘の長さは約125m。6世紀にこの地に巨大な古墳を造ることができるほど強い力を持つ人物が誰であったのかはまだ謎のまま、古墳は国の史跡になっています。雨の降る中、琵琶塚古墳に登ってみました。
資料館には2つの古墳を含む周辺の古墳群から出土した遺物や埴輪が展示されています。ちなみに埴輪は古墳の外部に置かれたものなので、墓の中にある、いわゆる埋蔵品とは区別されています。

DSC02778 のコピー.jpg
菜の花畑の向うに琵琶湖塚資料館
DSC02764 のコピー.jpg
琵琶湖塚古墳
DSC02777 のコピー.jpg
樹木に覆われて気付かないが摩利支天塚古墳
DSC02781 のコピー.jpg
琵琶湖塚資料館の展示

最後の訪問先は県立博物館です。昨年、足利一族の歴史を訪ねて訪れたところですが、今回は下野の古代史をたどりました。 なかなか立派な博物館でした。

DSC02799 のコピー.jpg
県立博物館
DSC02800 のコピー.jpg
DSC02810 のコピー.jpg
珍しい家型の埴輪

nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。